中廊下形間取り普及初期の家
設計年 大正5年設計
大正6年発表競技設計1等案
中廊下型間取り|初期作品
大正6年、東京芝浦にある一室では6名の沈黙が続いている。沈黙は落胆や気不味さではなく怒りによるものらしく、どの目も大きく見開かれ、瞬きも忘れ去っているようだ。
家具店の一室を間借りしているため、急ごしらえで設置された机の上には、昨年12月に締め切られた住宅競技設計の応募案34件の住宅設計図が所狭しと並んでいる、というより乱雑に設計図が広げられている。本来、競技設計の選考会で設計図書は丁寧に扱われるものだ、しかし、この選考会では異様な雰囲気が漂う中で、飛び散った設計図が6名の沈黙を物語っているようだった。
平面図 |
「どいつもこいつも、一体なんだっ!この応募案は」
最初に沈黙を破ったのは、東京帝国大学教授、工学博士の佐賀である。
「なんのために競技設計を開催したんだか・・・」
会主の橋本が落胆の言葉を漏らす。
橋本は明治42年に開業した、この家具店の主人でもあり、米国で住宅建築を学んできた経歴をもつ。
明治期から住宅に関する鋭い考察を発表している志賀が続ける。
「今回の競技案はお粗末ですな、何れもどこかで見たように感じる」
「君もそう思うだろう。我々はこれからの新時代に市民が暮らす家は如何にあるべきか、新しい生活観つまり将来へ向けての生活思想を問うた競技設計なのだ。こんな明治時代からの遺産のために開催されたものではない。違うかね志賀君、君も確か明治43年頃『住家』で住宅改良論を発表していたね」
「確かにどれもこれも間取り構成はよく似ておりますな、特にこの設計は、明治43年頃に『和様建築図集』で発表されたものに近いですな。確か玄関から入って傍に客間があり、廊下を挟んで間室を配置して奥に台所、浴室、女中室があって、南側には縁がある。確かに私も改良論の発表をしました。その中でプライバシーの問題や家事労働の軽減、経済性を問うていますが、一番には住宅は家族のためにすべきだということです」
「私も同じ意見だ、客間を最も好位置に配置し、そこに主人が君主のように鎮座する。まるで格式と接客を重んじた江戸時代の封建社会をそのまま住宅に持ち込んでいるだけだ。それもご丁寧に、プライバシーの確率だと言わんばかりに、中廊下とかいう、この家を貫く細長い空間はなんだ、私にはまやかしにしか思えん」
「客間と中廊下は厄介な問題ですな。武家の血筋を引くご身分の方であれば、確かにこの間取りが抵抗なく受け入れられるでしょう。しかし身分制度がなくなりつつあるこの時代いや、これからの時代を憂慮すれば、到底認めることはできません」
この言葉を受け、佐賀は再度、応募作品に目を移し考え込んでいるようだったが、思いがけない言葉が呟かれる。
「入選作に該当するものなし」
耳を疑ったのは、会主の橋本である、志賀は大きくうなづいている。
「佐賀教授お待ちください。入選作は選んでいただかねばなりません、これは応募者との契約です。入選作なしとなれば契約不履行になる可能性があります。会として私の店としても市民から不信感を抱かれるかもしれない」
米国帰りの橋本らしい考え方である。
「橋本さんならではのご意見ですな、確かにそのような恐れもある。今後この住宅を手に入れるであろう中産階級の増加が見込まれておる。我国、我国民の生活思想を憂慮すれば、我々が認めざるものを如何にして多くの市民に、これを入選案であると発表できますか。これが市民の基本となる住宅になるかもしれない。もしそうなれば、この審査に加わった我々が封建的社会を認めることになるのではなかろうか。我々は家を通して、男女の関係なく個人を尊重しつつも、自由で民主的な社会を表現する生活観を家で表現したい、これを表現できない方を私は恐れている」
佐賀、志賀両氏の決意強く言葉に表れたが、当年この入選作が公表されると、この明治40後期に普及が始まった中廊下形の住宅は、市民の抵抗もなく広く浸透することになる。同時期に発表された「居間中心形間取り」が「中廊下形間取り」よりも多く建設されるようになるのは2000年以降です。
※
「明治時代の住宅改良と中廊下形住宅様式の成立」木村, 徳国を参考にしたフィクションになります。
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