旧林芙美子手塚緑敏邸
建築年 1941 : S16
所持地 東京都新宿区中井2−20−1
「林芙美子の放浪記・新築物語」数寄屋の生活棟と民家型アトリエ棟
登場人物
・林 芙美子(はやし ふみこ)小説家1903(明治36)年12月31日 - 1951(昭和26)年6月28日門司市小森江出身
・手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)画家1902(明治35)年-1989(平成元)年( 長野県出身
・山口 文象(やまぐち ぶんぞう)建築家1902(明治35)年1月10日 - 1978(昭和53)年5月19日東京浅草出身
作 家 |
1938年に国家総動員法制定された翌年、1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻して、欧州では第二次世界大戦が勃発しようとしている同じ年の12月、芙美子は下落合4丁目(現・中井2丁目)五ノ坂に建っている西洋館のアトリエで、キャンパスに向かっている夫・緑敏に話しかけている。夫は明治35(1902)年生まれ一つ年上の画家である。
アトリエは2階にあり、片隅に置かれたツインベッドの片方に腰掛け、
「四ノ坂の土地を見に行きませんか」
「昨日も見に行ったじゃないか」
「宿命的に放浪者である私がようやく手に入れ、古里(じたく)を建設しようとしているのですよ」
「そうだね、君の思う通りに建てるとよい」
「もちろん、そうさせていただくつもりです。昨日は住宅に関する本を何冊も注文しておきました。年が明けたら京都へも見学に行きたいですし、これまで旅してきた地方の民家も魅力的で参考にしたいと考えています」
「芙美子らしいね。自分の家は自分で考えるってことか」
「私は、たとえ文壇で誹謗中傷されようとも、陰口を言われ批判の的であっても、自分に信念を持って文筆で自分を表現し貫いてきました。自宅の新築でも同じです、住宅は自分の暮らしや思想が実態として表現できるのですよ、こんな素晴らしいことはないじゃありませんか。それには土地をよく見ておく必要があります。そして来年は北満州と朝鮮をこの目で見て確かめたいとも思っています。時間がありません」
気性が激しく気まぐれな芙美子の導火線は短い、今まさに爆発しようとしている。
「そうだな、僕も敷地は季節や時間を変えて何度も見に行く方が良いと、聞いた覚えがある。そうと決まればすぐに四ノ坂へ行こうよ。それよりまたきた満州や朝鮮に行って、警察に留置されることはないんだろうな」
「あれは全くの濡れ衣です。今は自宅のことを考えています、あなたは余計な心配をしなくてもよろしいです」
アトリエ |
苦労を重ねた伴侶はただの気まぐれではない、自分の意見を曲げない信念を持って行動するだけだ、それを理解していれば、どんな我儘も理解できることが多い。
「そんな服では寒いだろう。外は寒いだろうからもっと暖かにしなければ。ほら」
緑敏は、ベッドの上に放り投げていた外套を芙美子にかけてやる。
五ノ坂から四ノ坂へ向かう途中で、緑敏は気になっていたことを聞いてみた、
「君が考える自宅を、具体的に設計してくれる建築家をお願いしないのかな」
「私がやります」
「おいおい、何でも自分でやりたがるのはいいけれど、住宅の設計は無理ではないか?」
キッと睨み付けてくる
「何かおっしゃいましたか」
「いやいや、君にはそんなに時間がないだろ。満州にも行きたいと言っていたではないか」
「そうですわね、専門家の相談相手も必要かしら」
「そうだよ、政局が不安なご時世だ、私たちの知らない規制もあるだろうし」
「でしたら、渡欧していた時にお会いした山口文象氏に相談しようかしら」
建築家:山口文象氏は確か、1930年12月シベリア経由で渡欧しているが、ドイツを拠点として水理技術調査していたと聞いている。1930年といえば、昭和恐慌の世相の中、芙美子が書いた「放浪記」と「続放浪記」が世間の目に留まり、記録的な出版部数を重ねて女流作家として世間の注目を集めたその年である。翌年1931年11月に芙美子も朝鮮・シベリヤ経由で半年ほどパリへ一人旅している。どこかで山口氏と出会ったのだろうか。
「山口氏と仲がいいのかな」
「いいじゃないそんなこと。それともjealousyかしら」
「まさか、餅を焼くのは正月過ぎだよ。山口氏といえば私と同い年、昨年黒部第2発電所関連の作品を発表して、最先端のモダニズム建築として一躍注目されている建築家じゃないか。私たちの住宅設計など引き受けてくれるか?」
と言いながらも、山口氏の器の大きそうな笑顔を思い浮かべ、彼なら無理な注文を言おうとも受け入れてくれるような気がしていた。
「そうね、昨年ご自宅(山口文象自邸|現クロスクラブ)も設計されているわ。それに・・・」
「それに?」
「私は、林芙美子です」
「確かに、そうでした」
「山口文象氏は、世間で最先端のモダニズム建築の先鋒と言われますが、お父上は清水組(現・清水建設)の大工棟梁、和風建築にも造詣が深いのですよ。京都の見学も彼をご一緒していただかなければなりません」
明けて1940年、欧州は益々落ち着かない様子、日本も戦時下という意識が強まっている、また新聞社の特派員を経験した芙美子にもなにやら連絡が入ってくるようだ。
「住宅関係の本もずいぶん熱心に読んでいたようだし、先日見学した京都の民家も参考になったね」
「そうなのよ、山口氏と棟梁に同行いただき、同じ建物を見学しても、私たちと建築家、職人さんの見るところが全く違うことを知りましたわ。そして、お二人とも十分にお話をできたから、心から安心してお任せできます」
「住宅の大きさに制限があるなんて知らなかったよ、日本も戦時下ということか」
「なんでも100平方メートルまでですって」
「ということは、約30坪強だね。君はお母様のお部屋と茶の間、座敷、客間それに台所と浴室それに私たちの仕事部屋、そうだお手伝いさんの部屋も必要だ。これだけの部屋数が30坪程の家に全部入るとは思えん。多少どこか大きさを我慢して建てるのかな」
「私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない。と書き綴った私よ、その私が決心して一箇所に古里を持とうとしている。これは私にとって一大決心なの、そして一個人の大革命なの。簡単にお上の言いなりにはなれません。それで山口氏とも打ち合わせをして、良い解決方法を見つけましたわ。二棟を別々に建てるの。1棟はあなた名義のアトリエ棟。もう1棟は生活棟、これは私名義ね」
「それは良い、ならば部屋数は収まるようだね」
「アトリエ棟は、私も好きなあなたの古里、長野の民家風にすればいいと思うの。民家風の大きな空間はアトリエに向いているのではないかしら。そして、生活棟は京都で見せていただいた大徳寺孤篷庵(こほうあん)の茶室『忘筌(ぼうせき)』がとても気に入りましたので、数寄屋を意識して造りたいわ」
「山口氏は数寄屋や民家も含めて『和の建築』をよくご存知だからね」
「自分の目で確かめるって大切だと痛感しました、同行くださったご両人も感激されていたようですし」
「僕も良い刺激をもらい、有意義な時間を過ごせた」
「素敵な建物を肌で触れ感じ取り、山口氏とお話し致し確信したのですが、住宅って施主の『ワガママ』を許してくれるって。私はこの戦時下では贅沢と言われても、どこかにゆとりのある家が欲しい。部屋にしても時と場合によっては使用目的を変えられるようにしたい。そのような住宅のゆとりが、私たちの心、精神的なゆとりにつながって、今後の私たちの創作活動にも大きな効果をもたらせてくれると思うの。ですから茶の間には広い縁も欲しいですし、北側には『忘筌』のような落ち着いた空間も欲しい、これらは間違いなく心のゆとりにつながると思います」
「確かに、そうだね」
「新築する時によく『間取り』という言葉を聞きますけれど、これは『空間の間」をとるともいえますが『生活の間』『心の間』『精神の間』をとることにつながっているのではないでしょうか。住宅によって、生活や性格、暮らし方も変わると思います。まさに、孟子さんが仰る『気は居を移す』です」
「なるほどねぇ」
「それとですね、生活部分とアトリエ部分は、今後の創作活動も含めた私たちが主役の空間ですから、この場所は茶の間や台所、お風呂にも予算をかけたいの、でも客間は来客が主役ですから、主役が引き立つ質素な部屋が良いのではないかしら。それは経済的な理由ではなく、私の気持ちの問題としてです。・・・」
平面図 |
決して他人には見せない人への気遣いは、とても彼女を憎めない一面でもあるが、またまた芙美子は理想の住宅を熱く語り始めている。多分、山口文象氏ならば必ず彼女の思いを表現する、素晴らしい建物を設計してくれるであろうし、同行した棟梁は巧みな技で実現してくれるであろうと確信している。
さて、もう少し彼女の熱弁に付き合うことにしようか。
この建物は、現在「新宿区立林芙美子記念館」として保存されています。
参考:
書籍|「日本の名作住宅の間取り図鑑 」大井 隆弘 著
「落合文士村」目白学園女子短期大学国語国文科研究室著
WEB|Wikipedia
新宿区立「林芙美子記念館」
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