2016年4月29日金曜日

幸田露伴「蝸牛庵」変遷記

幸田露伴が住んだ「蝸牛庵」といえば明治村に移築保存されている建物が有名であるが「蝸牛庵」とは露伴が住んでいる住宅を全て自ら「蝸牛庵」と名乗っており、ここでは分かりやすいように小生が勝手に「蝸牛庵」に名称を付け加えていることをお許しいただきたい。






この間取り図は、露伴が文京区小石川で2軒目に住んだ「傳通院」近くにあった建物であるが戦火で消失している。家前に大きな「榎」が植わっており、そこから「榎蝸牛庵」と小生が勝手に命名したものだ。幸いなことに榎は今でも残っている。しかし残念ながら街の雰囲気は当時の面影はないように思われる。



間取り図は小林勇著「蝸牛庵訪問記」を参考に想像を加え作図している。ただし、この間取りを想像する上で玄関左の和室4.5帖と台所、風呂の位置と広さ、特に台所の位置と広さがはっきりしていない。大正期から昭和前期に東京近郊で新築された住宅の台所は1坪のものが多く、その中に1畳のあげ床(床下は収納になっていた)とかまど流しが配置されていた。この間取りでは台所を4.5帖と考えているが、もし1坪の台所であれば著者も、その狭さを印象的な感想として記載したのではないかと思い、この広さにしている。

加えて、多くの市民がそうであったように、明治の文豪も関東大震災や戦火により自宅の転居を余儀なくされた時代であり「蝸牛庵訪問記」からその転居を詳しく知ることができたので「蝸牛庵」の変遷をここにまとめてみました。

昭和13年8月9日午後3時・・・・。
「蝸牛庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つで、どへでも行ってしまうという事ことだ。昔も蝸牛庵今もますます蝸牛庵だ」とつぶやいた幸田露伴。

北海道余市に赴任中の明治20(1887)年,二十歳で職を放棄して帰京した露伴は、明治20年から明治30年の間に向島に最初の、いわゆる「蝸牛庵」を構えたと思われる。

□ 向島
1軒目|は不明(お願い・ご存知の方は是非おしらせください)

2軒目|明治30(1897)年〜明治41(1908)年「雨宮蝸牛庵」(露伴30歳から41歳)墨田区東向島1−9−1|明治初年代新築、昭和47年「博物館明治村」へ「蝸牛庵」として移築保存。

3軒目|明治41(1908)年〜大正13年「露伴公園蝸牛庵」東京都墨田区東向島1-7-12の敷地で自分で家を設計し、住んでいたが、関東大震災で井戸に油が浮くようになったため転居を迫られる。建物は昭和47年解体され現在は露伴公園となっている。

□ 小石川
4軒目|大正13年(1924)6月〜昭和2年(1927)5月「映画館裏蝸牛庵」小石川表町66番地(現:小石川3-3-8)2階建て2軒長屋の貧しい家だったと書かれている。

5軒目|昭和2(1927)年5月〜昭和20(1945)年3月「榎蝸牛庵」小石川表町79番地(小石川3-17-16)2階3間 1階5間 2階書斎から榎が見えた家。昭和20年5月25日戦災で焼ける。

□ 長野へ疎開
6軒目|昭和20(1945)年3月〜同年10月「長野蝸牛庵」長野県更科郡坂城に疎開。

□ 伊東
7軒目|昭和20(1945)10月先ず伊豆伊東に移る「伊東 松林館」

□ 千葉
8軒目|昭和21年1月28日〜「市川蝸牛庵」千葉市川市「映画館裏蝸牛庵』伝通院前の映画館裏にあった2軒長屋蝸牛庵に匹敵するくらい貧しい家だった。

□ 新築計画
※昭和21年小石川表町旧蝸牛庵敷地買取新築計画「24坪の家」着手12万円で小さな建築会社と契約したが大工工事が進まなかったとしている。



※参考「蝸牛庵訪問記」小林勇著 岩波書店・講談社文芸文庫

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