2016年5月22日日曜日

「平成28年重要文化財答申」新指定11件 追加指定1件

文化審議会は,平成28年5月20日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,新たに下記12件の建造物(新規11件,追加1件)を重要文化財に指定することを文部科学大臣に答申した。
この結果,官報告示を経て,国宝・重要文化財(建造物)は2,456件,4,825棟(うち国宝223件,282棟を含む。)となる予定です。

【重要文化財 新指定の部】

写真「宮城県」http://www.pref.miyagi.jp
1|外国人宣教師用住宅の最初期の遺例(近代/住居) 
東北学院旧宣教師館 (とうほくがくいんきゅうせんきょうしかん)1棟
宮城県仙台市|学校法人東北学院



画像「福島県伊達市観光・歴史建築見所ナビ」http://www.fukutabi.net/fuku/date.html
2|外観洋風、内部和風で,地方的特色も備えた大型住宅(近代/住居) 
旧亀岡家住宅(きゅうかめおかけじゅうたく) 1棟
福島県伊達市|伊達市



画像「太田市」http://www.city.ota.gunma.jp/index.html
3|中島飛行機製作所創業者が営んだ大規模住宅(近代/住居) 
旧中島家住宅(きゅうなかじまけじゅうたく)4棟 主屋、土蔵、氏神社、正門及び門衛所,
群馬県太田市|太田市



写真「株式会社三越伊勢丹ホールディングス」http://www.imhds.co.jp
4|百貨店建築の発展過程を具現する意匠秀麗な大規模商業施設(近代/商業・業務)
三越日本橋本店(みつこしにほんばしほんてん ) 1棟
東京都中央区|株式会社三越伊勢丹




画像「東京の観光公式サイト|GO TOKYO 」https://www.gotokyo.org/jp/index.html
5|江戸の庶民信仰の隆盛を伝える鬼子母神堂(近世以前/神社) 
雑司ヶ谷鬼子母神堂(うしがやき しもじんどう) 1棟
東京都豊島区|宗教法人法明寺




画像「能登半島観光ポータルサイト|のとネット」 http://www.notohantou.net
6|日本海に臨む北前船主集落で豪壮な屋敷を構える船主の住宅(近代/住居)
旧角海家住宅(きゅうかどみけじゅうたく)5棟・主屋、家財蔵、塩物蔵、小豆蔵、米蔵)土地
石川県輪島市|輪島市




画像「松坂市」http://www.city.matsusaka.mie.jp/
7|伊勢における江戸店持ち商家の発展を示す町家建築(近世以前/民家)
旧長谷川家住宅(きゅうはせがわけじゅうたく)8棟
主屋、大正座敷、大蔵、新蔵、米蔵、西蔵、表蔵、離れ
三重県松阪市|松阪市




画像「比叡山延暦寺」http://www.hieizan.or.jp
8|比叡山延暦寺で江戸時代前期に再興された堂舎群(近世以前/寺院)
延暦寺(えんりゃくじ) 11棟
文殊楼、山王社、浄土院伝教大師御廟、浄土院唐門、浄土院拝殿、阿弥陀、
堂鐘楼、西塔鐘楼、四季講堂、元三大師御廟拝殿、横川鐘楼、慈眼堂
滋賀県大津市|宗教法人延暦寺




画像提供「倉敷市」http://www.city.kurashiki.okayama.jp/
9|15連の大規模な配水樋門を持つ大正期の農業用水施設(近代/産業・交通・土木)
高梁川東西用水取配水施設(たかはしがわとうざいようすいしゅはいすいしせつ)3基1棟
酒津取水樋門、南配水樋門、北配水樋門事務所、土地
岡山県倉敷市|高梁川東西用水組合




画像「おかやま旅ネット」http://www.okayama-kanko.jp
10|城下町で酒造業により発展を遂げた上質な住宅と醸造施設(近世以前/民家)
旧苅田家住宅(きゅうかんだ けじゅうたく おかやまけんつやましかつま だまち )10棟
主屋、三階蔵、米蔵、前蔵、西蔵、大蔵、醤油蔵、新蔵、巽門及び浴室、裏門
岡山県津山市勝間田町|津山市



画像「臥龍山荘公式サイト」http://www.garyusanso.jp
11|河岸の景勝地に営まれた意匠優美な近代数寄屋建築(近代/住居)
臥龍山荘(がりゅうさんそう) 3棟・臥龍院、不老庵、文庫
愛媛県大洲市(おおずし)|大洲市




【重要文化財 追加指定の部】
1|中国地方山間部における上層農家の屋敷景観を伝える施設群(近世以前/民家) 
奥家住宅(おくけじゅうたく) 1棟・土蔵、土地
広島県三次市|個人




2016年5月10日火曜日

森鴎外・夏目漱石が暮らした家

文豪二人が暮らした千駄木の家


建築年 大正10年頃
所在地 愛知県犬山市|博物館明治村


江戸期の武家住宅を引継ぐ家


路傍をさまよっていた我輩をこの邸(やしき)に「鶴の一言」で、住込みを許してくれたご主人様は我儘(わがまま)で、飽き性で、怒りっぽく、無頓着で、読書とは書籍を枕にして寝ることだと信じている自称「教師」のご主人様ですが、我輩をこの家に迎え入れたことを期に、我が国を代表する文豪の一人となることは、呑気な性格上今は知るよしもない。ましてや自分の肖像がお札に印刷されるなどと予想だにしていなかったであろう。

平面図
この邸は東京駒込千駄木に佇む。後々聞いた話では、明治23年に実業家中島利吉が、子息の医学士中島譲吉のために新築されたものだそうで、39坪木造平屋建てである。譲吉は何か不満があったのか、外にもっと居心地が良い宅があったのか、この家に住むことはなく明治23年からの1年間は森鴎外が借り受け、36年から39年までは主人が借りていた。
造りは玄関、座敷、縁、台所、おさんの部屋(女中部屋)、風呂、厠と、我輩が尊敬する筋向こうの白君の屋敷や、隣家に住む三毛君の屋敷、また彼らと伴って、ご近所の住まいへこっそりと侵入した屋敷も部屋数や大きさ、位置は違えどもどの屋敷もよく似ている。ただ、車屋の黒さん屋敷はもう少し大きいようである。

我輩が住むこの家は、ちょっと変わっており、庭先の井戸から汲み上げた水を貯める水瓶の左側柱には柄杓や杓文字を刺しておく、節上で斜めに欠き込んだ竹が取り付けられていて、さらに柱横に湯殿の入り口がある。なんとこの湯殿にはもう一つ出入り口があり、北側の縁に通り抜けることができる。つまり、湯殿には2箇所の出入り口があるため、もし湯殿で悪さをして尻を叩かれそうになっても2方向に逃げ道があるのだ。

そして、変わっていることはもう一つ、炊事場から茶の間へ通じる中廊下が設けられていることです。

実業家が新築した家といえども、聡明な方であれば、この時代の一般的な邸の間取りの構成が江戸時代の武家住宅を引き継ぎ、さらには民家の延長線上にあることを見抜いているのではないかと思う。つまり、床の仕上げと室名こそ違えども玄関台所が「にわ」であり、書斎部分は「まや」次の間に囲炉裏が切ってあり、座敷裏には「なんど」と呼ばれていた寝間があった。後世に「猫の部屋」と呼ばれるようになった我輩がよく過ごしていた、というよりここの主の書斎は、畳の替わりに板や絨毯で仕上げられ、応接間へと変化していったと唱える者も出てくるようだ。

飼い主に似て縁で昼寝に興じていたが、小便を催し伸びをして大きな欠伸をすると、

「この馬鹿野郎動くんじゃない」


2016年5月6日金曜日

文豪 夏目漱石が暮らした松山の家「愚陀仏庵」


愛媛県松山市「愚陀仏庵」

建築年 明治期

所在地 現存せず


日本最古の巨大地震記録

日本書紀には天武天皇13年10月14日(684年11月29日の頃)日本で最初の巨大地震の記述があり、南海トラフ巨大地震の一つと考えられている。地震学者の今村恒氏により「白鳳大地震」と名づけられた。その被害は、かなり広範囲で甚大で、土佐では田畑12Km2が海中に没し、伊予温泉の水脈が埋もれて湧出が止まったとされている。

「白鳳大地震」で湧出が止まったとされる「伊予温泉」は現在の「道後温泉」であり現在、源泉は29本あり内19本が愛媛県に登録されている。そのうち18本で温泉を汲み上げているようだ。源泉の位置は変われども道後温泉は広く国内外に知られ「日本最古の温泉」と道後温泉協同組合のホームページ|http://www.dogo.or.jp|で紹介されている。

中でも「道後温泉本館」は松山市の道後温泉の中心にある温泉共同浴場で、その権利は松山市が有していて、愛称「坊っちゃん湯」とも呼ばれているようだ。この「坊ちゃん」は夏目漱石が、この地に中学校教師として赴任していることから名づけられたことは、みなさんご存知の通りです。ちなみに夏目漱石が、この地に赴任したのは「道後温泉本館」が完成した翌年のこと。
1階平面図

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ、「愚陀佛庵」は全壊している。


建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとしているが趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたのではなかろうか。
2階平面図

夏目漱石がここに住み始めて4ヶ月後、日清戦争に記者として従軍従軍して帰還した一高時代(東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)の同級生、正岡子規が52日間滞在(静養)している。

※ 道後温泉本館は2017年10月頃から耐震改修工事が行われる予定。
※「愚陀仏庵」は2010年に全壊したのち再建計画は具体化していない様子です。


参考:
書籍|
「地震と噴火の日本史」伊藤和晃著:岩波新書
「間取り百年」吉田桂二著:彰国社刊
WEB|
道後温泉協同組合「道後温泉物語」|Wikipedia



夏目漱石が松山市で暮らした1年

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町(3丁目7)上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし復元された建物も2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ「愚陀佛庵」は全壊している。

建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとした趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、食事は右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたと思われる。しかし時世から当時相当の知識人である文学士漱石が母屋へ食事をしに渡り廊下を渡っていくとは思えない。またこの離れの主、上野家がそれを許すはずもなく、相当に大きな邸宅だった上野家では、漱石の身の回りを世話する使用人がお膳を運んできていたのではないだろうか。

食事は運んできたとしても浴槽を運んでくることは難しく、入浴は母屋を利用しに行っていたのであろう。しかし風呂好きだったとされる漱石は新築直後の道後温泉にも通っていたようで、友人の狩野亮吉へ宛てた手紙で
「道後温泉は余程立派なる建物にて八銭出すと三階に上がり茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるという様な始末随分結好に御座候」(明治28年5月10日付け)と伝えている。漱石がこの「愚陀仏庵」に移り住んだのが6月下旬なので、この手紙はそれ以前のこととなる。

また、アメリカ人教師 C・ジョンソンの後任として正岡子規の母校松山中学校に嘱託職員として赴任した漱石の給与は80円、小学校教諭、巡査の初任給が8〜9円、蕎麦代が2銭ほどの時代で、かなりの高給取りだった。道後温泉で1回8銭支払っても、さほど気にすることはなかったかもしれない。
しかし、この愚陀仏庵から前年に完成した道後温泉本館まで約2.7Kmほどある、松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)からまっすぐ帰ってくると約1.2Kmにあった下宿先に道後温泉に立ち寄り帰宅すると約4.2Kmとなる、いくら宿直などの学校業務を免除され担任も持たなかった漱石であっても学校帰りにこの距離を通っていたとは考えにくく、やはり入浴は母屋の浴室を使っていたのであろう。

明治28年5月26日付で「教員生徒間の折悪もよろしく好都合に御座候」と松山中学校の感想を伝えた正岡子規(日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した正岡子規は、この時期病気療養中であり神戸病院もしくは須磨保養院でこの手紙を受け取ったものと思われる。)が神戸で療養のあと松山に帰りこの庵に8月27日〜10月17日までの五二日間、子規はここに起居して共に暮らしている。病身で身長163.6Cmの子規は1階の6帖に万年床を敷き、身長159Cmの漱石は2階で寝起きしていたようだ。この場合身長は関係ないが、豆知識として加筆た。



2016年5月4日水曜日

災害はいつでもやってくる



先日「加賀藩足軽住宅」を書いた後、そういえば金沢市主計町(かずえまち)の写真があったことを思い出した。この写真は2007年4月30日に撮影されたもので時間は22時頃となっている。

主計町は金沢城(兼六園)から、やや北側に流れる浅野川に架かる「浅野川大橋」下流域に位置し、明治期から昭和戦前に栄えた茶屋町で、当時の建物が多く残っている。

町名は加賀藩士・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったことに由来しているとされている。1970年に尾張町(おわりちょう)2丁目となり一時期、主計町の町名が消滅したが、1999年に全国初の旧町名復活下町として当時話題になった経緯をもつ。


手前に写る川が浅野川で、市民の間ではそのゆるやかな流れから「女川」と呼ばれることもある。しかし普段は静かな流れの浅野川が、この写真が撮影された翌年の2008年(平成20年)7月28日に集中豪雨により、55年ぶりに氾濫が起き、ここ主計町も大きな被害を受けてしまい、主計町にある建物の中には災害時の水面が大人の腰高辺に残っている(残している)建物もある。

国内の河川は急流が多く、地震国であり火山国の日本「天災は忘れた頃にやってくる」などと呑気なことは言ってられない・・・「天災はいつでもやってくる」が正しいようだ。

2016年5月3日火曜日

金沢足軽住宅

加賀藩足軽屋敷

建築年 江戸時代
所在地 金沢市長町1-9-3

庭付き平屋一戸建ての足軽屋敷


建坪20坪余りの家族だけで生活した江戸期平屋一戸建ての足軽住宅は、明治期以降の勤労者住宅の基本と考えてもいいでしょう。
高西家
足軽たちが暮らした住まいといえば、重要文化財として指定されている「旧新発田藩足軽長屋」(新潟県新発田市)に代表されるように、長屋形式として一般に知られています。しかし加賀百万石の城下に住んだ足軽たちは、庭付き一戸建住宅に暮らしていました。ただし、生垣を回した庭は観賞用というより、果物の実る木や野菜を植えた菜園としての役割が大きかった。加賀百万石の大藩で裕福であったかといえばそうでもなく、足軽達の表米はおよそ年間25俵、大雑把に現代の貨幣価値に換算すると年俸125万円※でしかない。江戸期の物価を覗いてみると、落語によく登場する二八蕎麦は16文(400円)居酒屋の酒1合は32文(800円)中級旅籠(今のビジネスホテル相当)だと200文(5,000円)からも考えて、庭付き一戸建てに住んでいても台所事情は厳しかったようで、自給自足も頷ける。また、当時の大きな問題※であった類焼予防のため、消火しやすい平屋戸建てを選んだとも考えられます。

清水家
ここで紹介する足軽住宅は、金沢市内に現存していた江戸時代の下級武士である足軽の屋敷2棟で、1997年(平成9年)11月に移築再現されている。
保存展示されている足軽屋敷は高西家と清水家の2棟。高西家(左図上)の足軽屋敷は、加賀藩の足軽飛脚の屋敷地であった旧早道町(現・金沢市菊川二丁目)に残され、1994年(平成6年)まで住居として使用されていたもので、清水家(左図下)の足軽屋敷は旧早道町(現・金沢市幸町)に残され、明治時代以降も代々足軽の子孫が受け継ぎ、1990年(平成2年)まで住み続けられていたものです。いずれも木造平屋建て、石置き板葺の平入り切妻造で、玄関から座敷に続く接客空間と、台所や茶の間などの生活空間を並列させ質素倹約を旨とした、加賀藩武家の意向がうかがえる間取りです。

※貨幣価値換算
一石=十万円、一石=2俵(加賀藩の一俵は5斗入り)と換算しています。一説には1俵=1石=1両と解説されている方もいらっしゃいますが、これですと江戸期の物価、前述の二八蕎麦16文が800円相当になり違和感を覚えますので、ここでは1石=2俵と換算した400円の方がしっくりするので、1石=2俵としています。
※俵・石換算
戦国時代から江戸時代には概ね1俵は2斗から5斗と時代や土地ごとに異なり、幕府は1俵=3.5斗、加賀藩は1俵=5斗を基準としていた。現在の1俵=4斗(0.4石:60Kg)1石=2.5俵と全国的に統一されたのは明治時代になってからです。

※金沢の消防 平成13年度近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料より
江戸屋敷では「加賀鳶」と称する防備を任務とした火消人足を雇っていた加賀藩の地元金沢では、施設や寺社をその防備対象とする武士の消防組織として「定火消」の役がおかれていた。また、町方では藩初から町ごとに防火設備の設置や、消火道具の設置、火の用心を命じており、各町に防備組織が 作られていた。
この資料から慶長10(1605)年10月30日金沢城天守閣落雷、大台所本丸全焼火薬庫爆発という記載から始まり、記録では寛永8(1620)年4月14日「法船寺前民家から出火、河原町から金屋町まで1000軒消失」から始まり、230余年の間に罹災件数100軒以上の大火だけでも42件と、5年半に一度は100件を超える火災が発生していることになる。中でも「寛永12(1635)年5月9日河原町後から出火、浅野川持下屋敷など 10,000軒」、「宝暦9(1759)年4月10日泉野寺町舜昌寺から出火、博労町まで 10,818軒」などの大火が発生していると記載されている。

参考:
金沢市足軽資料館資料
平成13年度 近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料



 北陸新幹線が開業して1年、2016年4月13日に利用者が1000万人を突破した。JR西日本が当初想定していた在来線特急の2倍程度の乗客数を大幅に超え3倍で推移し、好調が続いているとしている。

第二次世界大戦時に空襲を免れた金沢。京都でも1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度、奈良市内は同年6月1日に初空襲を受けたのち3回ほどの被害がもたらされている。現在、古都とも呼ばれる金沢は主要な軍事施設や工場が無かったためか大規模な空襲から逃れ、古い街並みが残っている。中でも武家屋敷が今でも多く残る長町(ながまち)には、江戸期に同市内に建築された加賀藩の足軽住宅(武家屋敷)を、ほぼ原型の通り移築し保存されている。ちなみに入館は無料だ。

足軽住宅は長屋形式だと思われがちだが、加賀藩のこの足軽住宅は立派な一戸建てだ。さすが100万石のお膝元で財政的に豊かだった、家来には理解力が深く快適な住環境を提供したかった、という声も聞こえるが、その真意はわからない。ただ、江戸時代には、その禄高により土地面積も屋敷面積も決められていたので、この御定書によるものには間違いないと思う。

間取りを見ると接客のための部屋が充実していることに気づくだろう。この時期の武士はとにかく血のつながりを大切にしており、親戚だけでも3、4日に一度はお互いの家を訪ねていたようで、接客の間は非常に重要な位置を占めていたようだ。

どちらの住宅「清水家(上図)」「高西家(下図)」にも玄関には接客の間があり「厠」は2箇所設けられている、室内は武家住宅らしく飾ったところもなく均整が取れ、シンプルで清々しさを感じる空間である。

2016年5月2日月曜日

「蝸牛庵」幸田露伴が暮らした家|「博物館明治村」移築保存


蝸牛庵|幸田露伴が暮らした家

建築年 明治初年
所在地 犬山市内山|博物館明治村

数寄屋の趣がある明治初期の家

「愉快、愉快。豆鉄砲を喰らった小林の顔は見ものであった」

伝通院大門を右に曲がり、緩い下り坂を先程一人で釣り上げた大きな鱸をぶら下げて歩いている。鱸は小林を誘い共に釣りに出かけたものの、彼はあまりにもあたりが無く、途中で根を上げ帰ってしまった。その後、大きな鱸を3匹も釣り上げ、そのうちの大きな2匹を進呈してきたのだ。

幹周りが10尺はあろうかという榎を数歩通り越し、瓦屋根の門戸を開けると小川町に来て2件目の蝸牛庵である。映画館裏にあった蝸牛庵は、2階建2軒長屋でかなり急鬱な思いをした。この蝸牛庵は1階に5間、2階に3間と以前よりは広く、今は一時的に娘の文子も同居している。

平面図
思い起こせば、江戸下谷に生まれ、上の戦争のお陰で浅草諏訪町に一時避難して下谷に帰り、神田に移り住み、16の時には北海道余市にも住んだ。好きだった隅田川近くの向島を選び、明治30年(1897)に暗室を設えた雨宮家横(現住所:東京都墨田区東向島1-9)の蝸牛庵に居を構え、子供達が生まれた。明治41年(1908)には、自分で設計した蝸牛庵(現住所:東京都墨田区東向島1-7-12)に移り住み、関東大震災で井戸に油が浮き、急遽小川町の映画館裏(現住所:小石川3-3-8)に3年ほど住み、昭和2年の5月に引っ越したこの蝸牛庵(現住所:小石川3-17-16)に今は落ち着いている。その間に京都へもしばらく行っていたな。
「昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ、これからも蝸牛庵か」

少し大きめの独り言を言いながら、玄関のガラス戸を開けると、
「おかえりなさいませ、大漁ですわね」
ぶらさげてきた鱸に目をやり、娘の文子が声をかけてくる。
「北海道で鮭の沖取りを考えついた私だぞ、鱸を吊りあげるくらい雑作無い」
「何か言いながらおかえりになったご様子でしたけど」
「ああ、蝸牛庵の話かな」
「私が生まれた蝸牛庵ですか」
自分が生まれ、良き理解者であり幼くして母親を逝った住まいが印象的だったのであろうか、娘は自分の設計した蝸牛庵より、先の蝸牛庵かぎゅうあんを思い浮かべているのであろう。
「自分で設計した蝸牛庵もなかなかのものだったが、お前たちが生まれた蝸牛庵も思い出深い」
「そうですね、建物の形もなんだか蝸牛の形をしていたように記憶しています。そうそう暗室もあったのではありませんでしたか」
「あの頃も写真に関心があったから、自分で現像したくてな」
「何事もとことん追求して、物事を極めるお父様らしいですわ。建物全体に余裕ががあって、お手水も3箇所もありましたね」
「明治初年の造りだから、雨宮家が近隣の風流人を誘って宴でも催しておったのだろう。水屋もあり数寄屋風のなかなか良い家だった」
「そういえば、私たちが使わせていただいていました2階は一間だけで、景色の良い三方も眺めることがでいました」
「私の好きだった隅田川も見えてたな。あのような住まいも大切にしてほしいものだ」

次に我が家を建てるとしたら、利休が言った「海少し見ゆ」だ、ぼろ家でも買取り、年取った大工をひとり相手にして、思うように改造したら、立派ではないが洒落たものになるだろう。全てを満足させるより、少し足らぬ方がちょど良い。

図面は露伴が向島で2軒目に暮らした、雨宮家別棟で現在明治村に移築されている。

参考
「蝸牛庵訪問記」小林勇著 岩波書店・講談社文芸文庫
「間取り百年」吉田桂二著 彰国社刊
WEB|明治村・wikipedia

2階座敷の子供部屋表記についてご質問がありましたので、記載の理由を追記いたします。

1、この明治村に移築された「蝸牛庵(甲州屋:雨宮家別邸)」で露伴氏が暮らしたのは30歳から41歳。次女の幸田文さんがこの家で生まれたのは露伴氏が37歳の時(確か長女の歌さんが1,2歳年上だった記憶がありますので)で、露伴氏がこの住まいから離れる時には姉妹の年齢は4歳から6歳だったと思われること。

2、露伴氏のよき理解者であった奥様の幾美さんが、露伴氏の安眠のため子供達を同室ではなく、別室で寝かせたのではないかと予測されること。


以上のことから2階は子供室として利用していたのではと思われますので「座敷(子供室)」と( )を付け図面に記載したしております。真実のほどはわかりませんが、「子供室」の表記により明治から昭和にかけて活躍した文豪の人間味垣間見れるように思います。


現在「蝸牛庵」と言えばこの住宅である。

釣りを好んだ露伴は隅田川に愛着があったようで、向島では3軒の住宅に移り住んでいる、一軒めの住宅は不明(ご存知の方にご教示いただければ幸いです)であるが二軒めの住宅は墨田区東向島1−9−1※)に建つ「甲州屋」という酒問屋を営む雨宮家別邸に移り、明治30年から明治41年(露伴30歳から41歳)まで住んでいた。この建物は明治初年代に新築され現在「博物館明治村」に保存されている建物。

間取りからお分かりのように、この建物は住宅として使うより、ご接待目的で建築されているようだ。

来客を迎えやすそうな玄関の造りと「厠」が大小合わせて3箇所、縁と廊下に囲まれ独立した1階の座敷、2階は一部屋という平面から江戸時代の粋な旦那衆が、この建物で芸妓とともに接待や遊興に使われていた、もしくは使おうとしていた建物と想像できる。

2階の座敷を(子供室)と記載していますが、向島で3軒目の住まいに引っ越しされる時のお子様の年齢が4歳から6歳だったと思われること。

露伴氏のよき理解者であった奥様の幾美さんが、露伴氏の安眠のため子供達を同室ではなく、別室で寝かせたのではないかと予測されることから2階は子供室として利用していたのではと思われましたので「座敷(子供室)」と( )を付け弊社図面に記載しています。
(※東向島3丁目26番地と記載されているものも見かけましたが、地図により東向島1-9-1を記載しています。)