2016年5月3日火曜日

金沢足軽住宅

加賀藩足軽屋敷

建築年 江戸時代
所在地 金沢市長町1-9-3

庭付き平屋一戸建ての足軽屋敷


建坪20坪余りの家族だけで生活した江戸期平屋一戸建ての足軽住宅は、明治期以降の勤労者住宅の基本と考えてもいいでしょう。
高西家
足軽たちが暮らした住まいといえば、重要文化財として指定されている「旧新発田藩足軽長屋」(新潟県新発田市)に代表されるように、長屋形式として一般に知られています。しかし加賀百万石の城下に住んだ足軽たちは、庭付き一戸建住宅に暮らしていました。ただし、生垣を回した庭は観賞用というより、果物の実る木や野菜を植えた菜園としての役割が大きかった。加賀百万石の大藩で裕福であったかといえばそうでもなく、足軽達の表米はおよそ年間25俵、大雑把に現代の貨幣価値に換算すると年俸125万円※でしかない。江戸期の物価を覗いてみると、落語によく登場する二八蕎麦は16文(400円)居酒屋の酒1合は32文(800円)中級旅籠(今のビジネスホテル相当)だと200文(5,000円)からも考えて、庭付き一戸建てに住んでいても台所事情は厳しかったようで、自給自足も頷ける。また、当時の大きな問題※であった類焼予防のため、消火しやすい平屋戸建てを選んだとも考えられます。

清水家
ここで紹介する足軽住宅は、金沢市内に現存していた江戸時代の下級武士である足軽の屋敷2棟で、1997年(平成9年)11月に移築再現されている。
保存展示されている足軽屋敷は高西家と清水家の2棟。高西家(左図上)の足軽屋敷は、加賀藩の足軽飛脚の屋敷地であった旧早道町(現・金沢市菊川二丁目)に残され、1994年(平成6年)まで住居として使用されていたもので、清水家(左図下)の足軽屋敷は旧早道町(現・金沢市幸町)に残され、明治時代以降も代々足軽の子孫が受け継ぎ、1990年(平成2年)まで住み続けられていたものです。いずれも木造平屋建て、石置き板葺の平入り切妻造で、玄関から座敷に続く接客空間と、台所や茶の間などの生活空間を並列させ質素倹約を旨とした、加賀藩武家の意向がうかがえる間取りです。

※貨幣価値換算
一石=十万円、一石=2俵(加賀藩の一俵は5斗入り)と換算しています。一説には1俵=1石=1両と解説されている方もいらっしゃいますが、これですと江戸期の物価、前述の二八蕎麦16文が800円相当になり違和感を覚えますので、ここでは1石=2俵と換算した400円の方がしっくりするので、1石=2俵としています。
※俵・石換算
戦国時代から江戸時代には概ね1俵は2斗から5斗と時代や土地ごとに異なり、幕府は1俵=3.5斗、加賀藩は1俵=5斗を基準としていた。現在の1俵=4斗(0.4石:60Kg)1石=2.5俵と全国的に統一されたのは明治時代になってからです。

※金沢の消防 平成13年度近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料より
江戸屋敷では「加賀鳶」と称する防備を任務とした火消人足を雇っていた加賀藩の地元金沢では、施設や寺社をその防備対象とする武士の消防組織として「定火消」の役がおかれていた。また、町方では藩初から町ごとに防火設備の設置や、消火道具の設置、火の用心を命じており、各町に防備組織が 作られていた。
この資料から慶長10(1605)年10月30日金沢城天守閣落雷、大台所本丸全焼火薬庫爆発という記載から始まり、記録では寛永8(1620)年4月14日「法船寺前民家から出火、河原町から金屋町まで1000軒消失」から始まり、230余年の間に罹災件数100軒以上の大火だけでも42件と、5年半に一度は100件を超える火災が発生していることになる。中でも「寛永12(1635)年5月9日河原町後から出火、浅野川持下屋敷など 10,000軒」、「宝暦9(1759)年4月10日泉野寺町舜昌寺から出火、博労町まで 10,818軒」などの大火が発生していると記載されている。

参考:
金沢市足軽資料館資料
平成13年度 近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料



 北陸新幹線が開業して1年、2016年4月13日に利用者が1000万人を突破した。JR西日本が当初想定していた在来線特急の2倍程度の乗客数を大幅に超え3倍で推移し、好調が続いているとしている。

第二次世界大戦時に空襲を免れた金沢。京都でも1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度、奈良市内は同年6月1日に初空襲を受けたのち3回ほどの被害がもたらされている。現在、古都とも呼ばれる金沢は主要な軍事施設や工場が無かったためか大規模な空襲から逃れ、古い街並みが残っている。中でも武家屋敷が今でも多く残る長町(ながまち)には、江戸期に同市内に建築された加賀藩の足軽住宅(武家屋敷)を、ほぼ原型の通り移築し保存されている。ちなみに入館は無料だ。

足軽住宅は長屋形式だと思われがちだが、加賀藩のこの足軽住宅は立派な一戸建てだ。さすが100万石のお膝元で財政的に豊かだった、家来には理解力が深く快適な住環境を提供したかった、という声も聞こえるが、その真意はわからない。ただ、江戸時代には、その禄高により土地面積も屋敷面積も決められていたので、この御定書によるものには間違いないと思う。

間取りを見ると接客のための部屋が充実していることに気づくだろう。この時期の武士はとにかく血のつながりを大切にしており、親戚だけでも3、4日に一度はお互いの家を訪ねていたようで、接客の間は非常に重要な位置を占めていたようだ。

どちらの住宅「清水家(上図)」「高西家(下図)」にも玄関には接客の間があり「厠」は2箇所設けられている、室内は武家住宅らしく飾ったところもなく均整が取れ、シンプルで清々しさを感じる空間である。

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