2016年5月10日火曜日

森鴎外・夏目漱石が暮らした家

文豪二人が暮らした千駄木の家


建築年 大正10年頃
所在地 愛知県犬山市|博物館明治村


江戸期の武家住宅を引継ぐ家


路傍をさまよっていた我輩をこの邸(やしき)に「鶴の一言」で、住込みを許してくれたご主人様は我儘(わがまま)で、飽き性で、怒りっぽく、無頓着で、読書とは書籍を枕にして寝ることだと信じている自称「教師」のご主人様ですが、我輩をこの家に迎え入れたことを期に、我が国を代表する文豪の一人となることは、呑気な性格上今は知るよしもない。ましてや自分の肖像がお札に印刷されるなどと予想だにしていなかったであろう。

平面図
この邸は東京駒込千駄木に佇む。後々聞いた話では、明治23年に実業家中島利吉が、子息の医学士中島譲吉のために新築されたものだそうで、39坪木造平屋建てである。譲吉は何か不満があったのか、外にもっと居心地が良い宅があったのか、この家に住むことはなく明治23年からの1年間は森鴎外が借り受け、36年から39年までは主人が借りていた。
造りは玄関、座敷、縁、台所、おさんの部屋(女中部屋)、風呂、厠と、我輩が尊敬する筋向こうの白君の屋敷や、隣家に住む三毛君の屋敷、また彼らと伴って、ご近所の住まいへこっそりと侵入した屋敷も部屋数や大きさ、位置は違えどもどの屋敷もよく似ている。ただ、車屋の黒さん屋敷はもう少し大きいようである。

我輩が住むこの家は、ちょっと変わっており、庭先の井戸から汲み上げた水を貯める水瓶の左側柱には柄杓や杓文字を刺しておく、節上で斜めに欠き込んだ竹が取り付けられていて、さらに柱横に湯殿の入り口がある。なんとこの湯殿にはもう一つ出入り口があり、北側の縁に通り抜けることができる。つまり、湯殿には2箇所の出入り口があるため、もし湯殿で悪さをして尻を叩かれそうになっても2方向に逃げ道があるのだ。

そして、変わっていることはもう一つ、炊事場から茶の間へ通じる中廊下が設けられていることです。

実業家が新築した家といえども、聡明な方であれば、この時代の一般的な邸の間取りの構成が江戸時代の武家住宅を引き継ぎ、さらには民家の延長線上にあることを見抜いているのではないかと思う。つまり、床の仕上げと室名こそ違えども玄関台所が「にわ」であり、書斎部分は「まや」次の間に囲炉裏が切ってあり、座敷裏には「なんど」と呼ばれていた寝間があった。後世に「猫の部屋」と呼ばれるようになった我輩がよく過ごしていた、というよりここの主の書斎は、畳の替わりに板や絨毯で仕上げられ、応接間へと変化していったと唱える者も出てくるようだ。

飼い主に似て縁で昼寝に興じていたが、小便を催し伸びをして大きな欠伸をすると、

「この馬鹿野郎動くんじゃない」


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