2016年5月2日月曜日

「蝸牛庵」幸田露伴が暮らした家|「博物館明治村」移築保存


蝸牛庵|幸田露伴が暮らした家

建築年 明治初年
所在地 犬山市内山|博物館明治村

数寄屋の趣がある明治初期の家

「愉快、愉快。豆鉄砲を喰らった小林の顔は見ものであった」

伝通院大門を右に曲がり、緩い下り坂を先程一人で釣り上げた大きな鱸をぶら下げて歩いている。鱸は小林を誘い共に釣りに出かけたものの、彼はあまりにもあたりが無く、途中で根を上げ帰ってしまった。その後、大きな鱸を3匹も釣り上げ、そのうちの大きな2匹を進呈してきたのだ。

幹周りが10尺はあろうかという榎を数歩通り越し、瓦屋根の門戸を開けると小川町に来て2件目の蝸牛庵である。映画館裏にあった蝸牛庵は、2階建2軒長屋でかなり急鬱な思いをした。この蝸牛庵は1階に5間、2階に3間と以前よりは広く、今は一時的に娘の文子も同居している。

平面図
思い起こせば、江戸下谷に生まれ、上の戦争のお陰で浅草諏訪町に一時避難して下谷に帰り、神田に移り住み、16の時には北海道余市にも住んだ。好きだった隅田川近くの向島を選び、明治30年(1897)に暗室を設えた雨宮家横(現住所:東京都墨田区東向島1-9)の蝸牛庵に居を構え、子供達が生まれた。明治41年(1908)には、自分で設計した蝸牛庵(現住所:東京都墨田区東向島1-7-12)に移り住み、関東大震災で井戸に油が浮き、急遽小川町の映画館裏(現住所:小石川3-3-8)に3年ほど住み、昭和2年の5月に引っ越したこの蝸牛庵(現住所:小石川3-17-16)に今は落ち着いている。その間に京都へもしばらく行っていたな。
「昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ、これからも蝸牛庵か」

少し大きめの独り言を言いながら、玄関のガラス戸を開けると、
「おかえりなさいませ、大漁ですわね」
ぶらさげてきた鱸に目をやり、娘の文子が声をかけてくる。
「北海道で鮭の沖取りを考えついた私だぞ、鱸を吊りあげるくらい雑作無い」
「何か言いながらおかえりになったご様子でしたけど」
「ああ、蝸牛庵の話かな」
「私が生まれた蝸牛庵ですか」
自分が生まれ、良き理解者であり幼くして母親を逝った住まいが印象的だったのであろうか、娘は自分の設計した蝸牛庵より、先の蝸牛庵かぎゅうあんを思い浮かべているのであろう。
「自分で設計した蝸牛庵もなかなかのものだったが、お前たちが生まれた蝸牛庵も思い出深い」
「そうですね、建物の形もなんだか蝸牛の形をしていたように記憶しています。そうそう暗室もあったのではありませんでしたか」
「あの頃も写真に関心があったから、自分で現像したくてな」
「何事もとことん追求して、物事を極めるお父様らしいですわ。建物全体に余裕ががあって、お手水も3箇所もありましたね」
「明治初年の造りだから、雨宮家が近隣の風流人を誘って宴でも催しておったのだろう。水屋もあり数寄屋風のなかなか良い家だった」
「そういえば、私たちが使わせていただいていました2階は一間だけで、景色の良い三方も眺めることがでいました」
「私の好きだった隅田川も見えてたな。あのような住まいも大切にしてほしいものだ」

次に我が家を建てるとしたら、利休が言った「海少し見ゆ」だ、ぼろ家でも買取り、年取った大工をひとり相手にして、思うように改造したら、立派ではないが洒落たものになるだろう。全てを満足させるより、少し足らぬ方がちょど良い。

図面は露伴が向島で2軒目に暮らした、雨宮家別棟で現在明治村に移築されている。

参考
「蝸牛庵訪問記」小林勇著 岩波書店・講談社文芸文庫
「間取り百年」吉田桂二著 彰国社刊
WEB|明治村・wikipedia

2階座敷の子供部屋表記についてご質問がありましたので、記載の理由を追記いたします。

1、この明治村に移築された「蝸牛庵(甲州屋:雨宮家別邸)」で露伴氏が暮らしたのは30歳から41歳。次女の幸田文さんがこの家で生まれたのは露伴氏が37歳の時(確か長女の歌さんが1,2歳年上だった記憶がありますので)で、露伴氏がこの住まいから離れる時には姉妹の年齢は4歳から6歳だったと思われること。

2、露伴氏のよき理解者であった奥様の幾美さんが、露伴氏の安眠のため子供達を同室ではなく、別室で寝かせたのではないかと予測されること。


以上のことから2階は子供室として利用していたのではと思われますので「座敷(子供室)」と( )を付け図面に記載したしております。真実のほどはわかりませんが、「子供室」の表記により明治から昭和にかけて活躍した文豪の人間味垣間見れるように思います。


現在「蝸牛庵」と言えばこの住宅である。

釣りを好んだ露伴は隅田川に愛着があったようで、向島では3軒の住宅に移り住んでいる、一軒めの住宅は不明(ご存知の方にご教示いただければ幸いです)であるが二軒めの住宅は墨田区東向島1−9−1※)に建つ「甲州屋」という酒問屋を営む雨宮家別邸に移り、明治30年から明治41年(露伴30歳から41歳)まで住んでいた。この建物は明治初年代に新築され現在「博物館明治村」に保存されている建物。

間取りからお分かりのように、この建物は住宅として使うより、ご接待目的で建築されているようだ。

来客を迎えやすそうな玄関の造りと「厠」が大小合わせて3箇所、縁と廊下に囲まれ独立した1階の座敷、2階は一部屋という平面から江戸時代の粋な旦那衆が、この建物で芸妓とともに接待や遊興に使われていた、もしくは使おうとしていた建物と想像できる。

2階の座敷を(子供室)と記載していますが、向島で3軒目の住まいに引っ越しされる時のお子様の年齢が4歳から6歳だったと思われること。

露伴氏のよき理解者であった奥様の幾美さんが、露伴氏の安眠のため子供達を同室ではなく、別室で寝かせたのではないかと予測されることから2階は子供室として利用していたのではと思われましたので「座敷(子供室)」と( )を付け弊社図面に記載しています。
(※東向島3丁目26番地と記載されているものも見かけましたが、地図により東向島1-9-1を記載しています。)




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