2016年5月6日金曜日

文豪 夏目漱石が暮らした松山の家「愚陀仏庵」


愛媛県松山市「愚陀仏庵」

建築年 明治期

所在地 現存せず


日本最古の巨大地震記録

日本書紀には天武天皇13年10月14日(684年11月29日の頃)日本で最初の巨大地震の記述があり、南海トラフ巨大地震の一つと考えられている。地震学者の今村恒氏により「白鳳大地震」と名づけられた。その被害は、かなり広範囲で甚大で、土佐では田畑12Km2が海中に没し、伊予温泉の水脈が埋もれて湧出が止まったとされている。

「白鳳大地震」で湧出が止まったとされる「伊予温泉」は現在の「道後温泉」であり現在、源泉は29本あり内19本が愛媛県に登録されている。そのうち18本で温泉を汲み上げているようだ。源泉の位置は変われども道後温泉は広く国内外に知られ「日本最古の温泉」と道後温泉協同組合のホームページ|http://www.dogo.or.jp|で紹介されている。

中でも「道後温泉本館」は松山市の道後温泉の中心にある温泉共同浴場で、その権利は松山市が有していて、愛称「坊っちゃん湯」とも呼ばれているようだ。この「坊ちゃん」は夏目漱石が、この地に中学校教師として赴任していることから名づけられたことは、みなさんご存知の通りです。ちなみに夏目漱石が、この地に赴任したのは「道後温泉本館」が完成した翌年のこと。
1階平面図

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ、「愚陀佛庵」は全壊している。


建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとしているが趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたのではなかろうか。
2階平面図

夏目漱石がここに住み始めて4ヶ月後、日清戦争に記者として従軍従軍して帰還した一高時代(東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)の同級生、正岡子規が52日間滞在(静養)している。

※ 道後温泉本館は2017年10月頃から耐震改修工事が行われる予定。
※「愚陀仏庵」は2010年に全壊したのち再建計画は具体化していない様子です。


参考:
書籍|
「地震と噴火の日本史」伊藤和晃著:岩波新書
「間取り百年」吉田桂二著:彰国社刊
WEB|
道後温泉協同組合「道後温泉物語」|Wikipedia



夏目漱石が松山市で暮らした1年

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町(3丁目7)上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし復元された建物も2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ「愚陀佛庵」は全壊している。

建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとした趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、食事は右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたと思われる。しかし時世から当時相当の知識人である文学士漱石が母屋へ食事をしに渡り廊下を渡っていくとは思えない。またこの離れの主、上野家がそれを許すはずもなく、相当に大きな邸宅だった上野家では、漱石の身の回りを世話する使用人がお膳を運んできていたのではないだろうか。

食事は運んできたとしても浴槽を運んでくることは難しく、入浴は母屋を利用しに行っていたのであろう。しかし風呂好きだったとされる漱石は新築直後の道後温泉にも通っていたようで、友人の狩野亮吉へ宛てた手紙で
「道後温泉は余程立派なる建物にて八銭出すと三階に上がり茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるという様な始末随分結好に御座候」(明治28年5月10日付け)と伝えている。漱石がこの「愚陀仏庵」に移り住んだのが6月下旬なので、この手紙はそれ以前のこととなる。

また、アメリカ人教師 C・ジョンソンの後任として正岡子規の母校松山中学校に嘱託職員として赴任した漱石の給与は80円、小学校教諭、巡査の初任給が8〜9円、蕎麦代が2銭ほどの時代で、かなりの高給取りだった。道後温泉で1回8銭支払っても、さほど気にすることはなかったかもしれない。
しかし、この愚陀仏庵から前年に完成した道後温泉本館まで約2.7Kmほどある、松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)からまっすぐ帰ってくると約1.2Kmにあった下宿先に道後温泉に立ち寄り帰宅すると約4.2Kmとなる、いくら宿直などの学校業務を免除され担任も持たなかった漱石であっても学校帰りにこの距離を通っていたとは考えにくく、やはり入浴は母屋の浴室を使っていたのであろう。

明治28年5月26日付で「教員生徒間の折悪もよろしく好都合に御座候」と松山中学校の感想を伝えた正岡子規(日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した正岡子規は、この時期病気療養中であり神戸病院もしくは須磨保養院でこの手紙を受け取ったものと思われる。)が神戸で療養のあと松山に帰りこの庵に8月27日〜10月17日までの五二日間、子規はここに起居して共に暮らしている。病身で身長163.6Cmの子規は1階の6帖に万年床を敷き、身長159Cmの漱石は2階で寝起きしていたようだ。この場合身長は関係ないが、豆知識として加筆た。



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