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2016年7月1日金曜日

吉田五十八「小林古径邸」

日本画家が暮らす近代数寄屋住宅「小林古径邸」 

設 計 吉田五十八(よしだ いそや |1894~1974)
建築年 1934 : S9年
規 模 延べ床面積215㎡|木造二階建て
建築地 東京府東京市大森区馬込町(現 東京都大田区馬込)
現住所 新潟県上越市本城町7−7(小林古径記念美術館)
    平成10年9月、高田城二の丸跡内に復原工事

「新しい数寄屋」日本建築史の上でも重要な建築物

小林古径(こばやしこけい)|1883~1957 
    日本画家|代表作「髪」1950年(昭和25年)文化勲章受章
吉田五十八(よしだいそや)|1894~1974 
    近代数寄屋の大家|1964年(昭和39年)文化勲章受章
吉屋 信子(よしや のぶこ)|1896~1973 
    小説家|『安宅家の人々』『鬼火』日本女流文学者賞受賞

1階平面図

野分の後、道端の草花が倒れた向こうに、輝いた青空を背にして端正な切妻の建物がすっきりと佇んでいる。

玄関先にはこの家の主人、小林古径さんと、設計者の吉田五十八さんと、もう一人ご職人さんらしい殿方の三名が、旧知の間柄のような和やかな雰囲気で、建物を眺めている。無口だと評判の古径さんは、二人の話を聞いて頷いているだけのようだ。
「ごめんください」
傍の千代と一緒に挨拶をする。

2階平面図

「やあ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
丸い眼鏡を掛け、蝶ネクタイ姿の吉田さんが微笑んでいる。
「・・・・・ようこそ」と、古径さん

「あっ、初めてですね、こちら京都の宮大工棟梁である岡村仁三さん。日本の伝統構法を受け継ぐ名人で、この家の棟梁です」
「初めまして、吉屋です。こちらは秘書の千代、お見知りおきを」
「この家の棟梁を仰せつかった岡村と申します」
一通りの挨拶を済ませ、家の周りを眺めながら歩いている古径に目を向けながら
「先生は随分とご執心のご様子ですわね」
「そうなんですよ、この家が完成して約半年。今日は、お引っ越しされて何か不都合な箇所がないかと、吉田先生と共に建物の様子を見に来たら、古径先生はまだ引っ越しをなされていないというじゃありませんか、驚きましたよ」

「あら」
「なんでも、こんなにいい家ができようとは思わんかった。住まうにはもったいないから、当分は眺めて楽しんでいるそうです。嬉しいですね、職人冥利につきる褒め言葉です。そうではありませんか、先生」
「その通り、私の設計した建物を古径先生が眺めておられる光景は、いかにも古径先生らしい画境が、建築の上にも躍如としてあらわれ、設計者として、私もほんとうにうれしく感じています。なにしろ、古径氏は有名な無口で、1日なにもしゃべらなくとも平気な方、設計になにも注文が出ない、困りに困ってやっとのことで間数だけははっきり伺いましたが、いったいどのような家がご希望なのか皆目わからない、ようやくいただいたお返事が、
『私にもよくわからないが、とにかく、私が好きだという家をつくってください』と、まるで禅問答のようなお答えでした」

「古径先生らしいですわね。ですけども、吉田先生はそのお言葉だけでこのお住まいを設計されたのですか」
「これも建築修行の一つだと心得、古径先生のことを勉強して、苦心惨憺の上、誰が見ても古径先生らしい家と、感じる家をつくったのです」

「まあ、建築家というご職業は、そのような離業もおできになるのですか」

「長唄もそうですが、画から感じるんです。古径先生も仰っているが、いい作品というものは本来、作者が口で説明するものではなく、能書きがなくても作品そのものが見る人、使う人に語りかけ問いかけてその価値を知らしめるものであるものと考えています。昔から芸術芸能にたずさわっている者は、芸の慣れを一番恐ろしがっているといいます。古径先生も、写生するときは、決して筆を使わないで鉛筆を使っています。これは筆になれることを怖がっているからであると言ってました。このような先生だからこそ、画から伝わってくるものを感じることができたのでしょう」

「なんだかわかるような気がします。私も欧州で絵画や建物を拝見したときに、何か作品から語りかけられたような感覚を味わったことがあります」

「そうでしょう、それが本物です。まあ好き嫌いもありますが」

「お見受けいたしましたところ、古径先生は随分とこのお住まいがお気に入りのご様子ですけれど、住宅建築の極致とはどのようなものでしょう」

「新築のお祝いに呼ばれて行って、特に目立って褒めるところもないし、と言ってまたけなすところもない。そしてすぐに帰りたいといった気にもならなかったので、つい良い気持ちになってズルズルと長く居たといったような建築が、これが住宅建築の極致である 」

「うまい芸をなさる方が、やまをやまに見せず、また普通の人が見落とす何でもないところをやまに見せる・・・」

「さすが、よくご存知ですな」

「これでも、結構多忙な執筆をいたしておりますのよ」

「そうでした、これは失敬。そして住宅は住む宅で、どこまでも見せる宅ではない。だから家人にとって住みいい家であり、また来る客が長く居られて家人と親しめる家であって欲しい、日本人には日本特有の雰囲気がかもし出された家が本当にいい住宅であると思う。もう一つ言えば、少くとも住宅をつくる時は、ビルディングを建てる以上注意して将来その家屋が売買される場合、値打ちの下るやうな家を建ててはいけない。高く売れる家を建てるのが建築家の義務で、財産を減らすやうな家をたてた場合、その建築家は当然責められるべきである」

「先生がお考えのというか、その新しい数寄屋を思う存分おやりになりましたか?」
「この古径先生のお宅で、かなり自由にさせていただきましたが、あまりやりすぎると叱られそうな気もしてね、なにしろ小林古径先生のお宅ですから多少の気兼ねもあります」
「そうですか、では私の家を先生の思う通りにおつくりになっていただけませんか。私はなにも文句は申しません」

「それは嬉しいことを仰る。私のやりたいこと、してみたいこと全部やってみてもよろしいと申しているのですか」

「もちろんでございます」

「それは、私の新しい数寄屋発祥の家になりますな」

「それは楽しみでございますこと」


小林古径記念美術館
現存する吉田五十八の建物は非常に少なく、この移築された小林古径氏の住宅は、吉田氏がご自身で語る「新しい数寄屋」が確立される直前の建物で、戦後日本の建築界に大きな影響を与える貴重な作品である。
現在、吉屋信子記念館として保存されている建物も吉田五十八の設計により、1962年に新築された2軒目の家です。

主な住宅作品
1932年 鏑木清方邸 現存せず(鎌倉市鏑木美術館2階に画室を模して採り入れ)
1934年 小林古径邸・画室 (新潟県上越市に移築)
1940年 惜櫟荘岩波茂雄別邸 (静岡県熱海市)
1952年 梅原龍三郎画室(清春白樺美術館:山梨県北杜市長坂町中丸2072 に移築
1954年 山口蓬春画室 (現・山口蓬春記念館/神奈川県葉山町)
1958年 梅原龍三郎邸(東京都新宿区)アトリエへ移築
1962年 吉屋信子邸 (現・吉屋信子記念館/神奈川県鎌倉市)
1965年 北村邸 (京都市上京区/北村美術館隣接)
1967年 猪俣邸 (現・成城五丁目猪股庭園/東京都世田谷区)
1969年 岸信介邸 (現・東山旧岸邸/静岡県御殿場市)

※細かなご説明は控えております。間取り図をよくご覧になり、吉田氏が画家の家をどのような思いで設計されたか、皆様ご自身なりにお楽しみください。

参考
饒舌抄 吉田五十八 |新建築社
WEB
小林古径記念美術館

wikipedia

池辺 陽「立体最小限住宅」

立体最小限住宅

設 計 池辺 陽(いけべ きよし|1920.4.8 - 1979.2.10)
建築年 1950 : S25年
規 模 47㎡(14.2坪)
所在地 東京都新宿区

積極的に吹き抜けを取り入れた戦後初期の住宅


ラジオからは、美空ひばりさんが歌う「東京キッド」という最近流行している軽快な曲が流れています。山口淑子さんの「夜来香」も好きですけども、この「東京キッド」や笠置シヅ子さんの「買物ブギ」などはなんだか心がウキウキして、最近お気に入りです。

1階平面図

「このお住まいは少し小さくありません」
新築前に設計図を見せていただいた時、一度だけ池辺に尋ね他ことがあります。
「今年、新たに設立された住宅金融公庫で面積の上限があってな、1戸建て住宅は50㎡以下に制限されている」
「あらそうなの」
「建築家の私としては、この住宅不足、物資不足の中1、日でも早い住宅復興を目指したい」
「それは、立派なことですわ」
「小さな家でも、広々と心地よく暮らせると同時に、無駄を省くために建築資材を工業化して、廉価で高品質の住宅を建てたい。そのためにも自宅でそれを実証したいと考えている」

そう言っていた主人は、この家に「立体最小限住宅」と名付けたようです。最初「立体」という意味が理解できなかったのですけれど、初めて完成した自宅に入った時に、家全体が一部屋であるように、1階から2階までつながる大きな吹き抜けに驚き、その意味を理解しました。
吹き抜けのおかげで狭さは感じず、夏場はよく風が通り抜けて心地よいです。わが家を訪れた方も、1階から2階まで繋がった本棚があるこの吹き抜けと、お手洗いがお風呂場と一部屋になっていることに目を見張っているようですね。

玄関土間が無いので、雨が降った時などは、泥が室内に持ち込まれてしまうのは使いにくいですね。一時的には玄関戸近くに大きな雑巾でも置いておこうかなと考えていますが、住宅は、生活に合わせて自由に増改築をすれば良いと考えている池辺のことですから、近々今の玄関戸前のポーチ部分に玄関を増築してくれることを期待しています。

今のところ、靴脱ぎ場には困ったものですが、宅の池辺は家事労働に関しては理解が深く、主婦が動きやすい設計をしています、あら手前味噌でしょうか。家事の中でも、まだお風呂は薪で焚かなければならず、風呂焚きはもっとも大変な重労働の一つですから、台所に近い焚口のはとても助かりますし、流し台につながっている食卓も、調理してすぐに食卓に並べられるのは便利です。このような家事動線は、池辺が設計する住宅に共通しているようですわ。

家事といえば、一昨年三洋電機さんから、なんでも噴流式洗濯機という電気自動洗濯機が発売され、今年は巻式水流式の電気洗濯機が発売されるそうです。主婦の間では家事労働がとても軽減されると、月産1万台売れているそうです。でも、一昨年発売された噴流式洗濯機のお値段は28,500円、それまで販売されていた丸型攪拌式洗濯機の半値近くといえども、昭和23年総理大臣の給与が25,000円、小学校教員の初任給が2,000円と、まだまだ一般家庭にとっては高嶺の花ですし贅沢品です、そんなに早く一般家庭に普及することはないでしょうから良いのですが、もし購入できるようになれば、電気洗濯機をどこに置こうかしらと期待を膨らませています。

2階平面図

物資の配給制は、昭和22年から順次撤廃されています。家庭内には収納しなければならない物も少なく、今はそれぞれの部屋にはある程度の収納を設けてあり、新築当初は問題はありません。ただ、主人の仕事上書籍が多く、階段室と子供室の間の壁を利用した、吹き抜け一杯の書棚は、多くの書籍を所蔵する主人ならではの設計です。


戦後の住宅難を解決するために、主人池辺はいろいろな提案を自身で確かめようと新築されたこの家では、戸惑うところもありますが、とても生活に根ざして設計されていると感じつつ、日々を過ごしています。

浜口 ミホ「栗山邸」

「栗山邸」

設 計 浜口 ミホ(はまぐち みほ|1915年〜1988年)
建築年 1950:S25年頃
規 模 木造平屋 68.2㎡
所在地 東京都内(現存しない)

日本初の女性一級建築士が設計した住宅


この栗山邸は、封建的な住宅の間取りを強く批判し、民主的な住宅のあり方を主張した、戦後初の女性一級建築士浜口ミホの作品である。
中でも台所と食事と同じ場所に融合させ、明るく清潔な台所や家事動線の簡素化など、その時代によく見られた男尊女卑の考えを批難し、家庭内における女性の地位向上を訴えた。

「栗山邸」平面図

間取りの基本は民主的てあり、女性の地位向上を訴えた女史はの作品は「居間中心型」間取りで構成されている。とはいうものの、令息室が玄関からの出入りになっており、多少の不自然さを感じる間取りとも言えなくはなく、住み手(特にご主人)との打ち合わせの中で、設計者の苦悩もうかがえる。とはいえ、台所は朝日が差し込み、明るく広めの空間と流し台から連続する食卓は、夫人に好評だったと思われます。この台所にも調理トライアングル動線、つまりコンロとシンク、冷蔵庫を三角の動線で結ぶと動きやすいと発表しますが、この住宅も浴室側に冷蔵庫を設置していたものと思われ、家事労働の軽減を訴えていた設計者の主張が見て取れます。
戦前まで「西洋館」「洋風住宅」と呼ばれ、主にイス座とベッドで構成されていた「居間中心型」の住宅だが、この住宅には、個室化した「畳の部屋」を縁側でつないでおり「居間中心型」の住宅が、国内でも広く受け入れ易くなった間取り例である点にも注目したい。


建築年は特定されないが、資料では1950年から1953年の間といわれています。

池辺 陽「NO 8」

NO 8(遠山邸)

設 計 池辺 陽(いけべきよし|1920-1979)
建築年 1951 : S26年
規 模 17.5坪
所在地 東京都練馬区


アイランドキッチンを取り入れた歴史学者の家

練馬区に新築したこの家に引っ越しはや1ヶ月ほど経つ。本郷にある資料編纂室から帰宅した我が家は、池辺陽氏設計の18坪ほどの平屋の住まい。北面の玄関戸を開けると、正面には夕餉の支度を始めている妻の顔が見える。この台所は池辺氏が「アイランドキッチン」と名付けた独立している台所だ。少々狭いが、食卓も兼用されたデザインは、流し台の周りを自由に動き回れ、案外と使いやすいそうである。
平面図

「お帰りなさいませ」
「うむ、いま帰った。何か変わったことは?」
「いえ、特には何もありませんでした」
そうそう変わったことがあっては、私の身ももたないが大正3年生まれの日本男児、妻へのいたわりの言葉としてつい口から出てしまう。

帰宅後、直ぐに手洗いをするのが日課になっている。しかし、今日は少し気になる書類があり、玄関から入って右側にある書斎へ向かい、革製の鞄から書類を取り出し目を通す。戦後数年経ち社会は徐々に安定しつつあるも、まだまだ資材や面積の制限があるらしく、延べ面積は18坪ほどの小さな住まいを計画した。

日本史研究を生業としている身としては、蔵書が多く自宅にて研究、執筆の場所も必要であるため書斎を池辺氏に無理を言って計画に加えてもらった。

出来上がった間取りを見ると、本棚で仕切られただけの居間と一体型の書斎で、個室とばかり思い込んでいた私の期待は裏切られた感も拭えなかったが、北側の光は安定しており書斎にはいい環境で、書棚も思っていたより大きく、風の通りも良い。加えて居間と一体の空間は狭さを感じず、家族との時間も大切にしたい私にはありがたい空間構成といえる。

この時代の風呂は、薪で沸かすため浴室横に焚口が必要である。風呂を沸かすのは家内にとっても、大きな負担であろう。この家は、台所と焚口の距離も短く多少は家内の負担も少ないようでなかなか好評のようである。好評であるといえば、台所と子供室が近く、家内が調理をしながらでも、この距離感であれば、子供たちの勉強を見てやれることも特筆したい。

帰宅ご風呂に浸かり、湯上りには縁側に腰掛け、四季を感じつつ夕餉までの短な時間が楽しみであった。ただ、畳が無い我が家では、縁側は不似合いとのことで、テラスという名の濡れ縁を設け、お気に入りの時間を過ごしている。


さて、そろそろ食事の用意ができたみたいだ。

増沢 洵「最小限住宅」

増沢洵自邸「最小限住宅」

設 計 増沢 洵(ますざわまこと|1925-1990)
建築年 1952 : S27年
規 模 49.6㎡|15坪
所在地 東京都渋谷区大山町


既成概念にとらわれない間取りの構成

「この家には玄関が無いんだね」
と、一緒に見に来た子供が驚く。
1階平面図

「この住宅は戦争が終わったすぐ後に建てられ、最小限住宅って名付けられているよ。物資が少ない上に住宅金融公庫からお金を借りる時には、住宅の大きさに決まりがあったんだよ。もっとも効率よく丈夫な家を造るために、平面形状は非常にシンプル。3間x3間の正方形を間口幅1間で3分割、奥行き方向に1.5間幅で2分割して、計12本の通し柱で造られている」

「この前見に行った住宅も最小限住宅って言わなかった?」
「池辺氏の立体最小限住宅かな」
「そうそう」
「この住宅もいかに無駄を省いて、少しでも豊かな生活を送ろうと試行錯誤を重ね、この家を設計した増沢氏が自分の家で挑戦して、多くの人に同じ住宅を提供しようとしたんだ」
「ふーん」
2階平面図

「君が言ったように、玄関が無いだろ」
「うん」

「家に入る時にはちょっと気をつけて、靴についた泥を入り口で払い除けたり、雑巾で拭いてしまえば問題は無い。洗面所やトイレは1日に何回も使うから、居間から直接行けるけれど、お風呂は多くても1日1回だから、脱衣室は無くしてお風呂に入る時には寝室を脱衣室として使うんだな」

「お台所もなんだか狭く感じる」

「確かに流し台は1間ほどだから、お料理をしにくいように見えるけれどほら、食卓も流し台の一部と使えば出来上がったお料理をすぐに食卓に並べられるよ」
「決められた物資・決められた資金の中で、如何に暮らしやすく、豊かな生活を送るか無駄なものを削ぎ落とし、一つの空間を多目的に使うか徹底的に考え抜いた住宅といえるね」

「そんなこと言われても僕には難しいけれど、2階まで見えるからとても広いよ。ここでキャッチボールもできるかな」


「それは楽しいかもしれんな」

旧井上房一郎邸(アントニンレーモンド自邸写し)

旧井上房一郎邸物語(アントニン・レーモンド自邸写し)

設 計 Antonin Raymond(アントニン・レーモンド|1888 - 1976)
建築年 1952 : S27年
規 模 約190㎡(調査中)
所在地 群馬県高崎市八島町110-27(高崎市美術館内)


パティオがあるのびやかな平屋の家

若葉が眩しい夏めいた日に、高崎駅に降り立った。目的の場所は高崎市八島町と伺い、家を出る前に調べてきた。駅西口から徒歩5分ほど、距離にして約350mさしたる距離でもなさそう。
平面図

少し湾曲した石畳に一歩足を踏み込むと小町下駄の音が心地よい。玄関の向こうには、ガラス屋根から降り注ぐ初夏の眩しい日差しの中、パティオの椅子にここの主人が腰掛けている。さすが事業家、何かの気配を感じたのかこちらを振り返り手を挙げた。こんなに離れているのに後ろに目が付いているのでしょうか。

「いやー、お待ちしておりました」
「本日はお招きいただいありがとうございます。このお住まいにお招きおいただくのを楽しみに致しておりましたのよ」
「それはそれは、仰って頂ければいつでも大歓迎ですよ。特に美しご婦人は」
「あら、ご冗談ばかり」
「いやいや、美しいということは大切なことだ。そして、日本には日本の自然を尊重した美しさがあるが、これからはそれだけではいかん。海外の美しさも取り入れなければならん。だから私はブルーノ・タウトやこの家を設計したアントニン・レーモンドとも積極的に親交を交わしている」

主は、手にしていた江戸切子のお猪口をクイッと傾けた。

「このパティオはとても気持ちがいいですこと。確かこの建物は、チェコでお生まれになったアントニン・レーモンドさんが麻布の笄町(こうがいちょう)に建てられた建物と瓜二つだとかお聞きしましたわ」
「瓜二つとは少々気になるな。しっかりと彼には『写し』を建築すると許可を得とるよ。彼もそのことで悩んでいた時期もあったから」
「言葉の選び方を間違えましたかしら、まっ、おひとつどうぞ。レーモンドさんのご自宅と全く同じに建てられたのかしら」
「いやいや、ところ変われば家も変わるもの、彼の住まいは事務所兼住宅だよ、ここは住宅だけだから、笄町の自宅部分だけだ。それもリビングは朝日が充分に入るように東西を反転させておる」
「それだけですか」

「そうだな、その他、主な所は家内が茶道を嗜んでおるので寝室横に茶室として使える和室を設けたこと、居間の近くに不浄をつけたこと、私は靴のままの生活は好かんから靴を脱いで暮らせるようにした。おうおうそうだ、このパティオの屋根に硝子を入れた、雨の日でもこの空間を楽しみたいからの」
「そうだったのですか、このパティオはとても気持ちが宜しゅうございますね」
「そうだろう、先ほども言ったように、日本の文化と建築の美しさは自然を尊重した美しさでもある、そして屋敷の中にその自然を取り込む工夫をしてきた。それは鑑賞するばかりではなく、外の仕事を中でもできると言っても良いかな。土間や通り庭、土縁や、縁と呼ばれるものだな。レーモンドの言葉を借りれば『庭と家は一体 をなす。庭は家に入り込み、家は庭に滑り出す』と言っているからね、このパティオは彼なりに日本の文化と美意識を表現した空間なのかもしれんな」

「でも、実際の設計はあなた様でしょ」
「そんな風に聞いておるのか?」
「ええ、風の噂ですけど」
「確かにそのように言われても致し方ないか、あの頃は自宅から火を出してしもうて」
「そうでした、お気の毒なことでしたわ」
「それで、少し急いだもんで自分で決めたところも多かった。だが私はあくまでもレーモンド氏の設計だと考えておる。ほら、交響曲でも同じ楽譜を使って同じ楽団でも、指揮者が異なれば曲の印象も変わるだろ。あれと同じだレーモンド氏が描いた楽譜を私が指揮したんだよ」
「まぁ、井上様らしいお考えですこと」
「そろそろ家内が帰ってくる頃だ、夕飯は一緒に食べていきなさい」

この住宅は、井上房一郎氏(※1が当時アントニン・レーモンドの事務所兼自宅(旧東京・麻布の笄町(こうがいちょう)現:西麻布3丁目1954〜1974)を訪れた際すっかり気に入り、レーモンドから建設許可を得て地元高崎市八島町に建設した。またこの建物保存に関しては、日本建築学会が2002年、高崎市長に「井上房一郎邸保存に関する要望書」を提出しており、現在は高崎市美術館が保存維持している。

※1)井上房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年5月13日 - 1993年7月27日)は、群馬県高崎市出身の実業家。ブルーノ・タウトの招聘や群馬交響楽団の創設などの文化活動、田中角栄の庇護者としても有名。Wikipedia

参考:
高崎市美術館ホームページ
GLOAGUEN, Yola ヨラ・グロアゲン

「アントニン•レーモンドの住宅建築における 自然との関係の表現について」

清家 清 「私の家」

「私の家」

設 計 清家 清(せいけきよし|1918~2005)
建築年 1954 : S29年
規 模 50㎡
所在地 東京都国立


庭を居間に見立てたワンルームの平屋

日本における代表的な現代建築家、清家清氏はご自身の書「ゆたかさの住居学」(情報センター刊)の冒頭で「漢字には、住まいを指すのに二つの文字がある。すなわち「宅」と「家」である。この場合、宅はハードウェアーとしてのハウス、家はソフトウェアーとしてのホームにあたる。」と述べています。私は託つけてもうひとつ「宅」は男性「家」は女性にあたると加えたい。第三者と話すとき、ご婦人は「宅は・・・」といえばご主人のこと「家内は・・・」といえば奥様のことと認識しているからだ。つまり住まいは男女が協力することにより出来上がる、氏も著書の中で「夫婦は住まいの出発点」と言っている。
氏の設計した「私の家」は、戦後の家族、特に夫婦のあり方を「かたち」にした家ともいわれている。一方で、親のために設計したが、出来上がった住宅を見て入居を拒まれたとも聞き及ぶ。

清家 清「私の家」平面図

「参っちゃたなぁ〜」

隣の主屋から出てきたこの主は、頭を掻きながら笑顔で話しかける。

「どうかされました?」
「イヤー、この家に住みたくないってサッ!」
「あら」
「床の石張りが気になるそうだ畳がよかったって、それと室内建具が一枚もないことかな、そうそう厠と風呂が同じ部屋で、それも湯船がなく6尺ほどの管が一本だけってなんだあれはと、言われちゃった」

「これからお年を召されるお父様のことを考えて設計されたお住まいなのに残念だわ」

「本当だよ、高齢になっても気軽に外に出て、太陽の光を浴びて欲しいから、庭に出やすくしたし、ご近所のお友達も気軽に入れるように床も下げた、冬場は寒くないように床暖房まで備えて、室建具も家中を動きやすくするために無くしたのになぁ〜」

「それなら「親の家」改め「私たち愛の住処」にされてはイカガ」

「いくら僕だって、それは照れるな「私の家」だな」

「一人称が気になるけど、まあ、手を打ってあげてもよろしくてよ」

「それはありがたい、実はこうなることも予測して設計していたんだ。構造いわゆるハードな部分は、住宅が完成してしまうと動かせないが、設え(しつらえ)は、そこで生活する家族によって変化させれば良いと思う。もちろん年月が経つにつれ必要とされる設えも変化するだろうし、その変化にも対応できる住まいが、本来の機能主義の住宅といっても良いかな」

「そうね、私はこの家が塀で囲まれているおかげで、お庭も室内の一部に感じて、とても気に入っているの。室内の天井は少し低めで落ち着くし、お天気の良い日にお庭に出ると、まるで青空がどこまでも続く天井に思えてとても気持ちが良いわ」

「さすが我が姫君。いいこと言うね」

「玄関とお風呂だけは少し考えてよ、それと畳も・・・」


「わかっています」

池辺 陽「NO 20」

「NO 20」

設 計 池辺 陽(いけべきよし|1920.4.8 - 1979.2.10)
建築年 1954 : S29年
規 模 約60㎡
所在地 東京都目黒区


設備を家の真ん中に配置したコアプラン

戦争が終結した直後、日本の建築家は物資不足の中、質の高い住宅と暮らしを機械工業化に求めコストダウンと家事労働の軽減を図った。設備を中心に据えることにより、外観はかなり自由度を増し、画一化した工業製品の使用を見据えたいくつものプロトタイプが提案された。
NO 20|平面図

「このお住まいは平屋ですわね」

春しぐれの中、季節を先取りした桜色の傘をさした家内がささやいている。

「我が家は2階建てだが、この家は平屋にして仲間と唱える”機能主義”を進めてみた」

「あら、このお宅の軒下は随分と広いですこと」

「やはり、日本の家屋は軒下の空間も大切だよ。実質的には外壁を風雨から守ってくれるし梅雨時にも窓を開けて風通しも得られる。夏場の強い日差しも防ぎ室内の気温も下げることができる。それに軒下を自転車置き場や、今日のような天気では、物干し場としても使える」

「なかなか気のいいていること」

「中へお邪魔してもいいのかしら」

「かまわんじゃろ」

「このお住まいは木造って仰ってませんでした」

「基本は木造だが、コア部分の設備空間はコンクリートブロックを使っている」

「ご不浄と洗面、湯壺が一つのお部屋にまとめられているのですね」

「ああ、NO8の住宅では流し台だけを中心に配置したが、このNO20では水周り全てを中心に配置してある。この部屋の裏に流し台を置気、水周りを集中させることによっても資材の無駄を省きコストダウンできると考えたよ」

「お風呂は薪ではなくって」

「そう、湯は別のところで沸かしておる・・・」

「そうですか。なんと便利そうなことかしら・・・」

家内が毎日風呂焚きに苦労しておることは十分に承知している、そのためか、目には何かを訴える様子がうかがえるが、言葉を遮りさらに説明を続けることにしよう。

「このコアプランは、設備を真ん中に配置することにより、外壁を工業生産して均質化を図り、少しでも質の高い住宅ができないか試してみた」

ちょっと口を尖らせた家内はじっと聞いている。さらに
「コア部分を中心にして、家中をぐるりと回れる回遊式の動線、家事の負担を軽減させようと・・・」


「あらそれは、あなたが設計したNO8のお住まいと同じではありませんこと」

菊竹清訓「スカイハウス」

「スカイハウス」

設 計 菊竹 清訓(きくたけ きよのり 1928.4.1ー2011.12.26)
建築年 1958 : S38年
規 模 247.34m²
所在地 東京都文京区大塚


空中に浮かぶワンルーム・新陳代謝する家

メタポリズム「代謝建築論 か・かた・かたち」菊竹氏のデザイン論である。デザイン論といえば、なんとなく取っ付き難く、むつかしく感じるかもしれません。
しかし、「これからの建築は、日々変化する人の生活・暮らしに建築は柔軟に対応できなければならない」と、理解すればそんなに難しくはないのではないでしょうか。それを可能にする主要構造体と設備の技術が必要であり、ライフスタイルの変化に対応出来るように、空間を仕切る間仕切り壁を考え直すべきであると、理解してもいいかもしれません。
菊竹氏はこの建築論を、自身の自宅で表現し、証明することを考えたのが、1958年に完成した「スカイハウス」である。
スカイハウス 2階平面図

視線の上にはコンクリート打ち放しの建物が、空中に浮んでいる。その構造体の力強いイメージから、強大なイメージであったが、実際には控え目なスケール感と佇まいである。建物横の階段を6mほど登りきると、ここの主人が朗らかな笑顔で立っている。

「お邪魔します」
「ようこそいらっしゃいました」
「驚きました」

「建築は普遍的なものではいけませんな、特に住宅は」
突然に主人は語り出す。

「人は変化します。ライフスタイルも生活環境も、住宅はそれに自由に答えなければなりません。ただ、大きな建物を作って、間仕切り壁だけを変化させるという手法もあるだろうけれど、それでは不経済だし、将来どのように自分自身が変化するかも解らないのに、大きめの建物を作る意味がない。人の変化に建物が追随することに意味があるのです」

「先ずは人ありきですね」

「そう、それは建築の基本ですね。人がいなければ建築ではなく、ただの建築物、工作物というように、単なる「物」ですから」

「そうでした」

「人とは自分自身もそうですが、地域の人々という意味もあります。僕の先祖は地主だったのですが、かつて日本の地主は地域の人々に役立つインフラの担い手であり、地域文化の保護者でした。学校や農耕地に必要な水門をはじめとする整備、神社やお寺など地域のサポートは全て地主の役割で、時間の経過とともに、インフラも文化も変化します。つまり、変化する人に対応する力が建築に必要ですから、先ずは変化する『人の時間』ありきと、いうかな」

「なるほど。具体的なデザインのお話を聞いてよろしいですか」

「一般的に、建築の室内空間は四方の壁に囲まれます。しかし、その四角に壁を配置してしまうと、非常に閉鎖的に感じ、広がりがなくなってしまいます。ですから、壁柱と呼ばれる構造の柱を一辺の真ん中に配置し、四隅を解放することにより、視覚的にも感覚的にも、どこまでも空間が広がる効果をもたらせています。それに外部空間の中に、室内空間が溶け込む感覚が強く感じます。この感覚的なデザインと一緒に、強度的な視点からデザインを考えた場合、ここは傾斜地であり将来、増築が必要になった時には下階に必要な部屋を吊り下げれば良いと考えています。傾斜地の基礎工事は厄介です、最初に必要十分な強度の構造体を築き、後に必要なものをぶら下げれば、土地に負担を掛けなくても良いですし、基礎工事の必要もない」

「とても合理的だということですね。話を急ぎ申し訳ないのですが『設備技術や装置の更新や移動に十分対応できること』と仰っていました」

「そうです。一時期設備を中心とするコアプランが提案されましたが、面積の小さな住宅では、かえって住宅の変化に対応しにくいと思います。また、2階に居住空間をレイアウトしたこのプランでは、自由に変化させる居住部分を可能な限り広くするべきと考えた訳です。また設備を2箇所に分けることにより、下階に増築する時には、1箇所より対応しやすく、間取りの制限が半分になり、建築の可能性が高まります」

「なるほど、固定化されやすい設備も建物の変化に対応しやすくなりますね。次にライフスタイルの変化を受け入れるとは、間仕切壁の自由化とはまた違うのでしょうか」

「確かに、構造体には鉄筋コンクリート造を選び、屋根はHP(双曲放物面)シェルにしています。イメージとしては大きなシェルの中を自由に仕切って暮らすと、言ってもいいでしょうか。しかし室内のデザインは、日本建築の中でも、縁側の、あの曖昧な、内部でも外部でもない空間も捨てがたく、家全体に回廊をもうけて、曖昧な空間を通して室内空間を外部とつないでいます。そんな意味では、形は別にしてこの家は日本の家なのです」

「そう言われれば、天井の高さにも和的な感覚を感じます」

「外部と融和する日本建築は、横の広がり、自然との繋がりを求めてきましたから、天井はあまり高くしないのです。天井を高くすると、空間は孤立してしまう。そうそう間仕切り壁の話でしたね。そもそも私は、住宅に間仕切り壁は必要ないと考えています、家具で仕切れば十分です。社会の中では、家族という一つの「個」が住宅という個室に暮らすものです、その「個」がまた個室を持つ必要はない、それが住宅ではないかと。

ですから、外部空間とは建具で2重に仕切り、住宅内は一つの個室として機能させるために解放している。回廊は、社会と住宅という個室をつなぐ廊下の意味もあります。でも、現実には子供室も必要になると思いますから、将来は下階に子供室カプセルをぶら下げようと思います。しかし、社会の中で住宅の意味を唱え続けたいので、2階はこのまま使い続けたい。少し矛盾しますが、それを考え続けることが「建築」ではないでしょうか」


※本文は、本人へのインタビュー記事と、設計図書から読み解いたフィクションです。ご本人の発言とは異なる箇所も多々ありますことを、お断りしておきます。

参考
wikipedia

プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る

吉村順三「池田山の家」

池田山の家

設 計 吉村順三(よしむら じゅんぞう|1908年9月7日 - 1997年4月11日)
建築年 1965 : S40年
規 模 260㎡(78.7坪)
所在地 東京都品川区五反田


緑を取り込んだL型コートハウス的住宅

吉村先生との待ち合わせは午後1時。私たちは少し早めに目黒駅に着き、大使館が点在する街をのんびりと徒歩で目的地へ向かっている。
「ご迷惑でなければ、池田山の家を一度訪問させていただきたいのですが」
「そうですね。山口氏に確かめてみましょう」
その厳格な容姿と裏腹の快いお返事は、真のお人柄であろう。こうして先生は、気さくに希望を受け入れてくれたのが10日ほど前のことである。
1階平面図

長年憧れてきた池田山の家は、道路面に窓ひとつなく、大きなお屋敷の塀のようで道路面には左から木製のシャッターと軒の深いポーチ、1mほど窪んだ奥には木製の玄関戸が見える。その右側には、おおよそ縦に1m、横に30Cm間隔でラインが入ったコンクリートの打放しであろうか木目の入った壁が続き、8mほど離れたところに木製のドアが付いている。決して要塞などの威圧感はなく、街の景色によく馴染み気持ち良いファサードだ。
「いやぁーいらしゃい。すぐに判りましたか」
「今日はお天気も良く、先生が描いていただいた地図通りにのんびりと歩いてきました」
「そうですか、それは良かった。さぁ中へどうぞ、山口氏も快くご訪問をお待ちいたしております」
「では、お邪魔します」
玄関戸を開けると一瞬足が止まる。右側には左右が壁に囲まれ、奥には幅90Cm程のガラス戸が見える3畳ほどの庭から光が差し込んでくる。外観からは想像し得なかった驚きの空間が出迎えてくれる。靴を脱ぎ右に曲がり、壁内に引き込まれる引き戸を開けるとその視線の先に目にも眩しい緑と静かな水面が飛び込んでくる。さらに足を一歩部屋に踏み込むと左手には大きな欅が見えてくる、室内は適度に明るく心地よく暗く、のびやかに空間が広がっていく。なんと心地よい視線の演出だろうか、まさに吉村先生が言う「快い驚き」の空間であろうか、たった数歩ですでに吉村ワールドに引き込まれてしまった。これが本物の住宅であろう、私は大きな確信とともに、高揚する気持ちを抑えきれない。
「言葉が無い」
正直な気持ちである。
「そうですか。気持ちいいですか」
目にはうっすら涙が溜まってくるのが自分でもわかる。まるでマジックのように、いつのまにかソファーに腰掛けている。この視線からでは、室内と同じ高さのウッドデッキが続き、水面には庭の緑と澄み渡った青空に雲が浮かんでいる。左奥には食堂が繋がりその奥には、ご家族専用の居間であろうか微妙に見え隠れしている。食堂へは玄関ホールからも直接入れるようで、たった今帰宅したお子さんが、この居間を通ることなく奥の部屋へ消えていく。右壁には建具があり内部は見えないが、その奥は先ほど玄関横の庭から見えた部屋になっているのであろう。

2階平面図

「気持ち良さを通り越し感動しています」
「そう感じますか」
「ええ、ただ気持ち良いばかりか、凛とした品格を感じます」
「私は、全てに気持ちいい建築を設計しなければならないと考えています」
「よく先生が口にするお言葉ですな」
「さらに、建築家には施主に責任がある。それは、快い驚きは、住宅とか建築の中にあったほうが良いだろうし、
建築主の希望を叶えた上で、自発的にプロポーションと収まりを苦労して考えなければならない。
また、建築には資源も資金も浪費しないで、材料の節約自然資源の節約、それを造るときの労力の節約、できるだけ手間を掛けないで、使いやすく美しいこと。建築の美しさは使い勝手が良く造形が美しい運命にあるから、時が経ても美しく流行遅れにならないと、考えています」
「全く、観念にだけしか考えていないような最近の若い方々にも聞かせたいです」
「日本の住宅は元来、やっぱり昔からの、日本のもっている素直さというか、正直さというか、合理性というかそれが本当、それが真理であると・・・」




この文章は「吉村順三のディテール」彰国社刊を参考にしたフィクションです。

2016年4月27日水曜日

丹下健三氏設計「国立代々木競技場」耐震改修



平成28年4月20日「国立代々木体育館」を運営、管理する日本スポーツ振興センターは、震度7の地震で倒壊する恐れがあることから平成29年春から平成30年度末までの2年弱、同体育館の耐震改修工事を行うと発表した。耐震改修は1964年の建設以来初めてで、つり屋根構造の第1体育館、円錐(えんすい)状の天井の第2体育館ともに工事期間中は閉鎖するとしている。

「国立代々木体育館」を設計した丹下健三氏の自邸は、いろいろと話題を生み物議を醸し出した作品の一つであるが、耐震改修されることなく取り壊されてしまった。
自邸は「近代建築の5つの要素」ピロティ・屋上庭園・自由な平面・水平連続窓・自由な立面を取り入れ計画された。敷地は古くから塀や門を築くことはお互い自粛しようという申し合わせがあった敷地であり、新築後は近所の大人たちにはあまり良い印象を与えなかったが、近隣の子供たちはこの庭でよく遊んでいたようです。「1階はピロティーにした開放的な庭として、2階にプライバシーのある住居計画して地域に親しみ易いものの表現を求めた」と語っていますが、平面から見てもそのボリュームが地域と合わなかったのかもしれません。
氏の建築はどちらかというと、地域に溶け込むといよりも、シンボリックでありランドマークとなる作品が多く、住宅地にはインパクトが強すぎたのでしょう。

平面図は一見、日本の伝統的な「田の字型」間取りと映るかもしれないが、発想としては自由な平面にパーテーションとして「襖・障子」を採用したといっても良いでしょう。この平面形に水平に連続する窓と自由な立面により住宅が表現されていた。近隣住民にはあまり評判がよろしくなかったようだが、建物のスケール、特に間口が広くサボア邸が主に細い円柱で1階ピロティーを構成していたのに比べ、壁で構成されたこの住宅は住宅地では、かなり威圧感があったのかもしれない。また、建築年が戦後10年も経過しておらず、近隣の住人の中には「わざわざ2階建てにしなくとも、平屋の方が資材が少なくて済む上に、地域に馴染んで良いではないか」と感じた人も多かったのではないだろうか。また、夫人がこの住宅に暮らし始めて精神的に辛い時期を過ごした、などという話も聞こえてきた。


この自邸は住宅を多くは手がけなかった建築家が、自費を投じて近代建築の要素を取り入れた建築に自身が暮らすことにより、その建築を体験し将来の建築のあり方を考える実験住宅であったに違いない・・・と、思いたい。