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2016年7月1日金曜日

時代が創り出した居間中心型の間取り

時代が作り上げた居間中心型間取り初期作

設計年 昭和初期

居間中心型間取り|初期作品

昭和4年発刊 住宅競技設計図案集「朝日住宅図案集」「居間中心形」はその言葉通りであり、居間を住宅の中央に配置して、各部屋へは主に居間を通って出入りする「形」です。

国内の史的には大正初期に考え出されたと言われています。

自然発生的に生み出されたといわれている傾向の「中廊下形」と異なり「居間中心形」は大正期の住宅改良論の中で、技術的・思想的根拠の上で国内の住生活を改善させようと強い意識の基で「作り上げられた形」と指摘されている。

平面図

間取りの形式は欧米小住宅を規範とされ、初期段階での部屋は洋風の仕上げを採用されており、基本的にはイス座であったことから、太平洋戦争前の頃まで「西洋館」「洋風住宅」と呼ばれていたが、時代とともに部屋は洋室のイス座から、和風畳敷の床座に変化するものや、この形態に多く存在していた独立子供部屋は部屋形態の和風化により、個室としての独立性を失う傾向も見られる。

「中廊下形」住宅が在来和風住宅の延長線上として、広く社会の中で、自然発生的に生まれ、定着してきた間取り型に反し、この「居間中心形」は名前が物語るように、あくまで外来形式として特殊視され、社会に定着するにはかなりの時間を有することになる。2000年代になり、独立住宅の間取りは、それまで主流であった「中廊下形住宅」が減少し「居間中心形住宅」の普及が著しくなった。

※参考
「大正時代の住宅改良と居間中心形住宅樣式の成立」木村、徳国

 「居間中心型住宅普及の動向と計画課題に関する研究」木義、岡、切原

中廊下形間取り普及初期の家「大正6年発表競技設計1等案」

中廊下形間取り普及初期の家

設計年 大正5年設計 
    大正6年発表競技設計1等案

中廊下型間取り|初期作品

大正6年、東京芝浦にある一室では6名の沈黙が続いている。沈黙は落胆や気不味さではなく怒りによるものらしく、どの目も大きく見開かれ、瞬きも忘れ去っているようだ。
家具店の一室を間借りしているため、急ごしらえで設置された机の上には、昨年12月に締め切られた住宅競技設計の応募案34件の住宅設計図が所狭しと並んでいる、というより乱雑に設計図が広げられている。本来、競技設計の選考会で設計図書は丁寧に扱われるものだ、しかし、この選考会では異様な雰囲気が漂う中で、飛び散った設計図が6名の沈黙を物語っているようだった。

平面図

「どいつもこいつも、一体なんだっ!この応募案は」
最初に沈黙を破ったのは、東京帝国大学教授、工学博士の佐賀である。
「なんのために競技設計を開催したんだか・・・」
会主の橋本が落胆の言葉を漏らす。
橋本は明治42年に開業した、この家具店の主人でもあり、米国で住宅建築を学んできた経歴をもつ。

明治期から住宅に関する鋭い考察を発表している志賀が続ける。

「今回の競技案はお粗末ですな、何れもどこかで見たように感じる」
「君もそう思うだろう。我々はこれからの新時代に市民が暮らす家は如何にあるべきか、新しい生活観つまり将来へ向けての生活思想を問うた競技設計なのだ。こんな明治時代からの遺産のために開催されたものではない。違うかね志賀君、君も確か明治43年頃『住家』で住宅改良論を発表していたね」

「確かにどれもこれも間取り構成はよく似ておりますな、特にこの設計は、明治43年頃に『和様建築図集』で発表されたものに近いですな。確か玄関から入って傍に客間があり、廊下を挟んで間室を配置して奥に台所、浴室、女中室があって、南側には縁がある。確かに私も改良論の発表をしました。その中でプライバシーの問題や家事労働の軽減、経済性を問うていますが、一番には住宅は家族のためにすべきだということです」

「私も同じ意見だ、客間を最も好位置に配置し、そこに主人が君主のように鎮座する。まるで格式と接客を重んじた江戸時代の封建社会をそのまま住宅に持ち込んでいるだけだ。それもご丁寧に、プライバシーの確率だと言わんばかりに、中廊下とかいう、この家を貫く細長い空間はなんだ、私にはまやかしにしか思えん」

「客間と中廊下は厄介な問題ですな。武家の血筋を引くご身分の方であれば、確かにこの間取りが抵抗なく受け入れられるでしょう。しかし身分制度がなくなりつつあるこの時代いや、これからの時代を憂慮すれば、到底認めることはできません」
この言葉を受け、佐賀は再度、応募作品に目を移し考え込んでいるようだったが、思いがけない言葉が呟かれる。

「入選作に該当するものなし」
耳を疑ったのは、会主の橋本である、志賀は大きくうなづいている。
「佐賀教授お待ちください。入選作は選んでいただかねばなりません、これは応募者との契約です。入選作なしとなれば契約不履行になる可能性があります。会として私の店としても市民から不信感を抱かれるかもしれない」

米国帰りの橋本らしい考え方である。
「橋本さんならではのご意見ですな、確かにそのような恐れもある。今後この住宅を手に入れるであろう中産階級の増加が見込まれておる。我国、我国民の生活思想を憂慮すれば、我々が認めざるものを如何にして多くの市民に、これを入選案であると発表できますか。これが市民の基本となる住宅になるかもしれない。もしそうなれば、この審査に加わった我々が封建的社会を認めることになるのではなかろうか。我々は家を通して、男女の関係なく個人を尊重しつつも、自由で民主的な社会を表現する生活観を家で表現したい、これを表現できない方を私は恐れている」

佐賀、志賀両氏の決意強く言葉に表れたが、当年この入選作が公表されると、この明治40後期に普及が始まった中廊下形の住宅は、市民の抵抗もなく広く浸透することになる。同時期に発表された「居間中心形間取り」が「中廊下形間取り」よりも多く建設されるようになるのは2000年以降です。

「明治時代の住宅改良と中廊下形住宅様式の成立」木村, 徳国を参考にしたフィクションになります。

傳通院「映画館裏蝸牛庵」?

東京北区王子の一棟二戸建長屋

建築年 昭和5年頃
所在地 現存せず

傳通院「映画館裏蝸牛庵」?

昭和初期、工業が急成長していた時代、東京には労働力となる人たちが集中してくるようになった。この人びとを受け入れるための長屋が急増した時代でもある。
1階平面図
この間取りは昭和5年頃、東京北区王子の工場に隣接して建てられた一棟二戸建。間取りは、一階が二帖の玄関の間と六帖、四帖半の三室に二帖の台所と半帖の便所。二階は六帖一間である。東京では大正期から二帖の台所が間取りに現れ始め、一般のスタイルとして定着している。しかしこの二帖の台所で家族4〜5人分の食事をどのように作っていたのか興味深いものである。

玄関横には板塀で囲まれた前庭があり、板塀には植木棚を取り付けられていたようだ。クーラーなどないこの偉大には、高温多湿の梅雨や夏場をしのぐためにも、大きな開口が必要であり、家の中を道路から見えなくする板塀は重要だったのであろう。

2階平面図
明治の文豪、幸田露伴氏が暮らした「蝸牛庵」を2軒取り上げたが、小石川で最初に暮らした傳通院「映画館裏蝸牛庵」(私が勝手に名付けている)も小林氏の「蝸牛庵訪問記」から、このような住まいだったのではなかろうかと思う。

※参考:「間取り百年」吉田佳二著 彰国社刊

「蝸牛庵訪問記」小林勇著 岩波書店・講談社文芸文庫

京都東山に建つ通常規模の「京町屋」

京都|東山「京町屋」

建築年 明治期
所在地 京都符京都市東山区

京都東山に建つ通常規模の京町屋


1階床面積 18.75坪
2階床面積 13.75坪(吹き抜け2.5坪)


京町家 平面図

京都町家の敷地の広さは、京都市の調査で15〜25坪未満が29%、25〜45坪未満は25%と15坪〜45%未満の敷地面積の建物が大半である。この建物は東山にある通常規模の住宅といってよい。両側の隣家とは壁を接しているので窓はなく、採光は道路と裏庭(前栽)からと、内庭にある吹き抜けに取られた高窓からのわずかな採光から得ている。吹き抜けはカマドから漏れる煙の排出にも有効で、高窓の開閉は紐引きで操作する。
この建物は上下階の部屋の広さ、開口位置、柱壁の位置も同じくしていて当時建築された街中にある建物の典型的な例といえる。また町屋の通例である片側通り庭(土間)は、家の奥にある厠は当時、汲み取り式だったこともあり下足で自由に裏庭まで通り抜けられる。

京都市では京町屋の種類として下記の7種類としている。記載している軒数とと比率は平成20年10月から平成22年3月に調査された報告書※によるものである。

京町家の種類

総二階(そうにかい)25,069軒  52.5%
2階の天井が1階並みにあり、木枠にガラス窓が一般的である。明治後期から昭和初期にはやった様式で、本二階ともいう。

厨子二階(つしにかい)5,631軒  11,8%
2階の天井が低く、虫籠窓がある。近世後期に完成し、明治後期まで一般的に建築された様式で、中二階ともいう。

三階建(さんかいだて)164軒  0.3%
3階建ての町家。

平屋(ひらや)6,147軒 12.9%
1階建てで、表に店舗をもたない。中世の町家はほとんどが平屋であった。今日では「平家」と表記することも多い。

仕舞屋(しもたや)1,195軒 2.5%
住居専用の町家。店を「仕舞った」つまり商いをやめた店からきている。

大塀造(だいべいづくり)1.168   2.4%
直接には建物が道に面しておらず、表通りに塀をめぐらして玄関先に庭、その奥に家屋を配した屋敷をいう[10]。塀付き、高塀造(たかべいづくり)ともいう。

看板建築(かんばんけんちく)8,361  17.5%
町家の表側を近代的に改装したもの。昭和中期の高度経済成長期に改修が施されたものが多い。外観は京町家とは大きく異なるものの、戻すことは比較的容易である。

※「京町屋の特徴」
平成20年10月から平成22年3月調査
実施主体 京都市、財団法人京都市景観・まちづくりセンター、立命館大学
京町屋の軒数と類型

参考

「間取り百年」吉田桂二著:彰国社刊

幸田露伴「小石川の蝸牛庵」

傳通院前「蝸牛庵」


建築年 不明
所在地 文京区小石川3-17-16

2階の書斎から大きなが見えた家

昭和12年、第一回文化勲章受章者「幸田露伴」は自邸を「蝸牛庵」と称していた。今では「蝸牛庵」といえば名古屋「博物館明治村」に昭和47年移築し保存されている建物が有名であるが、米大統領が搭乗する航空機を「Air Force One」と呼称されるように露伴が住んでいる住宅を「蝸牛庵」と称していた。まずは「人ありき」なのである。

建築にも造形が深く、岩波書店創業者の岩波茂雄が、吉田五十八に設計を依頼し静岡県熱海市に建築した別荘「惜櫟荘」を訪れ、あまりにも部屋から海が見えすぎる建物を見学し、同行した小林氏に「利休は、海すこし見ゆ、と言っている」と、その感想を伝えている。
1階平面図(想像)

釣りを好んだ露伴は隅田川に愛着があったようで、向島では3軒の住宅に移り住んでいる、一軒めの住宅は不明(ご存知の方にご教示いただければ幸いです)であるが二軒めの住宅は墨田区東向島1−9−1※)に建つ「甲州屋」という酒問屋を営む雨宮家別邸に移り、明治30年から明治41年(露伴30歳から41歳)まで住んでいた。この建物は明治初年代に新築され現在「博物館明治村」に保存されている建物である。来客を迎えやすそうな玄関の造りと「厠」が大小合わせて3箇所、縁と廊下に囲まれ独立した1階の座敷、2階は一部屋という平面から江戸時代の粋な旦那衆が、この建物で芸妓とともに接待や遊興に使われていた、もしくは使おうとしていた建物と想像できる。

※東向島3丁目26番地と記載されているものも見かけましたが、ここでは地図により東向島1-9-1と記載しています。

その後、明治41年(1908)東京都墨田区東向島1-7-12の敷地で自分で家を設計し、「蝸牛庵」と名づけて暮らし始め、大正(1923)年9月1日に発生した関東大震災で井戸に油が浮くようになったため、大好きな隅田川を離れ、大正13年小石川へと転出しました。この敷地は現在、露伴児童遊園となり、この家で書かれた「運命」の碑が建てられている。

2階平面図(想像)

大正13年(1924)6月に移転した住まいは伝通院前の映画館裏にあり住所は小石川表町66番地(現:小石川3-3-8)にあり、2階建て2軒長屋であったという。

昭和2年5月に岩波書店の小林勇氏に紹介された小石川表町79番地(現:小石川3-17-16)に移る。小生が勝手に「傳通院榎蝸牛庵」と名付た今回紹介する「蝸牛庵」である。この建物の前には大きな榎が生えており、当時は2階書斎からこの榎が見え、夏には部屋を緑色に染めるほどだったようで、現在でも伝通院前を右に曲がり少し下って行くと目前に現れる。家賃は当時100円だったそうである。当時の家賃は朝日新聞の「値段史年表」によれば板橋区の仲宿(中山道沿い)における一戸建て、または長屋形式(6畳・4.5畳・3畳・台所・洗面所)家で昭和3年に11円50銭。公務員の初任給が大正9年から昭和12年までが75円、小学校教員の初任給は大正9年から昭和6年の期間でおおよそ50円とされている。現在でいえば45万円前後の家賃だろうか。

この間取りは小林勇氏が執筆した「蝸牛庵訪問記」岩波書店1956、講談社文芸文庫1991を基に小生が想像して作図しており実際の建物と異なる場合も考えられることをご了承ください。また、この間取りをご覧になりご意見やご指摘いただければありがたいです。


京都市中京区の町屋

京都市中京区の町屋

建築年 不明
所在地 京都市中京区

歴史的な「町」単位を受け継ぐ地域の町屋


「うなぎの寝床」と呼ばれる間口が狭く奥行きが深い敷地に建つ町屋は、間口に対して課税する豊臣秀吉の税制に反発した形だとする説がある。京都に限らず国内各地においても、この形状が課税のせいだと言われているし、学校でもそう習った記憶もあるが、京都の住宅地はそれより以前から細長い敷地に区分けされていたようなので、これは俗説だとも言われている。
1階平面図

一方で、ある建築家は京都の建物は盗賊対策として、防犯のために間口を狭くしていると指摘している。歴史本によれば、天歴年間(947〜957年)京都には盗賊が横行し、政府機関の建物も狙われ、いわゆる泥棒ではなく群盗と言われる種類であったともいわれる。このため1辺を40丈(約120m)を最小単位とする正方形の「町」は平安京の当初の計画で、その東西にだけ家々が建ち並ぶ「二面町」が想定されていたようだが、この防衛のため東西南北に 家々が建ち並ぶ「四面町」へと変化していったとも推測できる。確かに間口を狭くし、出入り口を一箇所とすれば施錠忘れも減り奥行きが長ければ、たとえ賊に襲われても奥へ逃げやすかったのかもしれない。また、京都の花街が「一見さんお断り」であることは、この歴史があったために生まれた、自衛手段だったのかもしれない。

2階平面図

ともかくこの「うなぎの寝床」と言われる細長い敷地で、採光や風通しを得るために、今でいう「町屋型」の住居が生まれた。町屋型と言われる住居の特徴は、細長い建物の中に採光や風通しを得る目的で、庭園的(観賞用)な前裁(せんざい)や中坪(なかつぼ)また縁側に近い庭先(庭前・にわさき)と呼ばれる何箇所かの庭と居住空間として利用する目的の玄関庭、走り庭、通り庭、裏庭など多彩であり、蒸し暑い京都の夏には、これらの庭に打ち水をすることにより、住居内に風を引き込む生活の知恵も生まれたようである。

また、この間取りのように、一般市民が通り抜ける路地(ロージ)の上部に民家の2階が作られていることも大きな特徴の一つと言える。


※参考
甦る日本史[1][古代・貴族社会篇]: 頼山陽の『日本楽府』を読む
「平安京の条坊制」山田, 邦和
京都の歴史的風致(京都市情報館)
島村昇・鈴鹿幸雄他著「京の町屋」鹿島出版社


 

京都「町内」の変遷

北海道に現存する初期開拓農家の家「旧三戸部家」

現存する初期開拓農家の家


建築年 明治5年
所在地 北海道伊達市梅本町61-2「伊達市開拓記念館」内

「旧三戸部家」

仙台藩は、安政2年(1855年)以降、仙台藩の領地意外に東蝦夷地の警衛も任されており、戊辰戦争に敗れた責任を問われ、石高を減封された領主たちは、自らの家臣団の救済のため、私費を投じて北海道開拓のために移住を決意。亘理伊達氏は有珠郡(現在の伊達市)を選び、家臣たちと共に明治3年4月から移住を開始し、明治14年の間に9回にわたって、述べ2700余名が移住した。
旧三戸部家 平面図

旧三戸部家住宅は、初期の開拓者住居として現存する唯一の建物で、明治5年(明治10年後半という説もある)に建築されてこの住居は、柱を3尺間隔に建て、寄棟草葺屋根をもつ当時の仙台地方の建築様式を表している。ただ、屋根を寄棟としているのは、開拓地が海に近いための強風対策や、寒さ対策のため壁面積を小さくする工夫とも解釈できる。間口5間、奥行き3間に半間の軒下空間をもつ簡素な作りの平面に、屋根の架構には合掌造りの扠首(さす)組が見られる。

「だいどころ」は炊事や作業の場で土足であった。(「だいどころ」は昭和45年の修理解体移築時には、間口2間奥行き3尺の土間以外を板間と改装されている)囲炉裏を切ってある「おくざ」は「だいどころ」と3枚の板戸で仕切られ、正面側にも引き違いの板戸が入っている。奥の「なんど」は主に収納の他、寝室の意味合いが強く、薪も貴重な開拓初期には、極寒期以外はここに藁を敷き寄り添って眠り、極寒期には「おくざ」の囲炉裏に火をたきその傍に寝ていたと思われる。

琴似屯田兵村「第133兵屋」

琴似屯田兵村「第133兵屋」


建築年 明治7年
所在地 札幌市西区琴似2条5丁目1-12

北海道防衛と開拓の功労者が暮らした家


北海道の開拓に主要な役割を果たした入植者に屯田兵がある。特に初めて屯田兵が入植したこの琴似屯田兵村には、北辺の防衛と開拓の任務を兼ねて、主に東北の諸藩、特に佐幕藩の士族が送り込まれ合計198戸、その家族を合わせて男女 965人が琴似兵村に入植しました。明治8年(1875)から同32年まで、この琴似屯田兵村を第一村として道内各地に37の屯田兵村が造られ約4万人が入植したといわれています。

平面図

琴似屯田兵村は、正式名称を「屯田兵第1大隊第1中隊」といい、明治7年11月に建てられたもので、屯田兵屋としては、最も古い建物である。村は全部で208戸の兵屋で構成され、兵屋の設計は主に開拓使工業局営繕係の岩瀬隆弘と、安達喜幸に加えて開拓顧問を務めていたホーレス・ケプロンであったことから、切妻の屋根組みにはトラス構造が採用されている。当初は2棟長屋形式も検討されたようだが、ケプロンの指導で独立一戸建てが採用されたという。

1982年に国の史跡に指定されたこの住居は、宮城県亘理郡小堤村出身の清野専次郎が居住した「第133号兵屋」で、1970年まで同位置に残されていましたが、1972年に改築、建設当初のまま復元されて現在に至っています。

各戸は150坪の宅地に、間口5間、奥行3.5間で8帖と4.5帖の畳の間に、囲炉裏を据えた10帖の板の間、9帖の土間と大小便所からなり台所は板の間におかれています。

第140番兵屋※)は屯田兵村敷地に位置する琴似神社へ寄贈され、
昭和39(1964)年に移転。北海道指定有形文化財として保存されている。

※)住所:札幌市西区琴似1条7丁目琴似神社境内

作家「林芙美子 放浪記」終の住処

旧林芙美子手塚緑敏邸


建築年 1941 : S16
所持地 東京都新宿区中井2−20−1

「林芙美子の放浪記・新築物語」数寄屋の生活棟と民家型アトリエ棟


登場人物
・林 芙美子(はやし ふみこ)小説家1903(明治36)年12月31日 - 1951(昭和26)年6月28日門司市小森江出身
・手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)画家1902(明治35)年-1989(平成元)年( 長野県出身
・山口 文象(やまぐち ぶんぞう)建築家1902(明治35)年1月10日 - 1978(昭和53)年5月19日東京浅草出身

作 家


1938年に国家総動員法制定された翌年、1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻して、欧州では第二次世界大戦が勃発しようとしている同じ年の12月、芙美子は下落合4丁目(現・中井2丁目)五ノ坂に建っている西洋館のアトリエで、キャンパスに向かっている夫・緑敏に話しかけている。夫は明治35(1902)年生まれ一つ年上の画家である。
アトリエは2階にあり、片隅に置かれたツインベッドの片方に腰掛け、
「四ノ坂の土地を見に行きませんか」
「昨日も見に行ったじゃないか」
「宿命的に放浪者である私がようやく手に入れ、古里(じたく)を建設しようとしているのですよ」
「そうだね、君の思う通りに建てるとよい」
「もちろん、そうさせていただくつもりです。昨日は住宅に関する本を何冊も注文しておきました。年が明けたら京都へも見学に行きたいですし、これまで旅してきた地方の民家も魅力的で参考にしたいと考えています」
「芙美子らしいね。自分の家は自分で考えるってことか」
「私は、たとえ文壇で誹謗中傷されようとも、陰口を言われ批判の的であっても、自分に信念を持って文筆で自分を表現し貫いてきました。自宅の新築でも同じです、住宅は自分の暮らしや思想が実態として表現できるのですよ、こんな素晴らしいことはないじゃありませんか。それには土地をよく見ておく必要があります。そして来年は北満州と朝鮮をこの目で見て確かめたいとも思っています。時間がありません」
気性が激しく気まぐれな芙美子の導火線は短い、今まさに爆発しようとしている。
「そうだな、僕も敷地は季節や時間を変えて何度も見に行く方が良いと、聞いた覚えがある。そうと決まればすぐに四ノ坂へ行こうよ。それよりまたきた満州や朝鮮に行って、警察に留置されることはないんだろうな」
「あれは全くの濡れ衣です。今は自宅のことを考えています、あなたは余計な心配をしなくてもよろしいです」
アトリエ

苦労を重ねた伴侶はただの気まぐれではない、自分の意見を曲げない信念を持って行動するだけだ、それを理解していれば、どんな我儘も理解できることが多い。
「そんな服では寒いだろう。外は寒いだろうからもっと暖かにしなければ。ほら」
緑敏は、ベッドの上に放り投げていた外套を芙美子にかけてやる。
五ノ坂から四ノ坂へ向かう途中で、緑敏は気になっていたことを聞いてみた、
「君が考える自宅を、具体的に設計してくれる建築家をお願いしないのかな」
「私がやります」
「おいおい、何でも自分でやりたがるのはいいけれど、住宅の設計は無理ではないか?」
キッと睨み付けてくる
「何かおっしゃいましたか」
「いやいや、君にはそんなに時間がないだろ。満州にも行きたいと言っていたではないか」
「そうですわね、専門家の相談相手も必要かしら」
「そうだよ、政局が不安なご時世だ、私たちの知らない規制もあるだろうし」
「でしたら、渡欧していた時にお会いした山口文象氏に相談しようかしら」
建築家:山口文象氏は確か、1930年12月シベリア経由で渡欧しているが、ドイツを拠点として水理技術調査していたと聞いている。1930年といえば、昭和恐慌の世相の中、芙美子が書いた「放浪記」と「続放浪記」が世間の目に留まり、記録的な出版部数を重ねて女流作家として世間の注目を集めたその年である。翌年1931年11月に芙美子も朝鮮・シベリヤ経由で半年ほどパリへ一人旅している。どこかで山口氏と出会ったのだろうか。
「山口氏と仲がいいのかな」
「いいじゃないそんなこと。それともjealousyかしら」
「まさか、餅を焼くのは正月過ぎだよ。山口氏といえば私と同い年、昨年黒部第2発電所関連の作品を発表して、最先端のモダニズム建築として一躍注目されている建築家じゃないか。私たちの住宅設計など引き受けてくれるか?」
と言いながらも、山口氏の器の大きそうな笑顔を思い浮かべ、彼なら無理な注文を言おうとも受け入れてくれるような気がしていた。
「そうね、昨年ご自宅(山口文象自邸|現クロスクラブ)も設計されているわ。それに・・・」
「それに?」
「私は、林芙美子です」
「確かに、そうでした」
「山口文象氏は、世間で最先端のモダニズム建築の先鋒と言われますが、お父上は清水組(現・清水建設)の大工棟梁、和風建築にも造詣が深いのですよ。京都の見学も彼をご一緒していただかなければなりません」

明けて1940年、欧州は益々落ち着かない様子、日本も戦時下という意識が強まっている、また新聞社の特派員を経験した芙美子にもなにやら連絡が入ってくるようだ。

「住宅関係の本もずいぶん熱心に読んでいたようだし、先日見学した京都の民家も参考になったね」
「そうなのよ、山口氏と棟梁に同行いただき、同じ建物を見学しても、私たちと建築家、職人さんの見るところが全く違うことを知りましたわ。そして、お二人とも十分にお話をできたから、心から安心してお任せできます」
「住宅の大きさに制限があるなんて知らなかったよ、日本も戦時下ということか」
「なんでも100平方メートルまでですって」
「ということは、約30坪強だね。君はお母様のお部屋と茶の間、座敷、客間それに台所と浴室それに私たちの仕事部屋、そうだお手伝いさんの部屋も必要だ。これだけの部屋数が30坪程の家に全部入るとは思えん。多少どこか大きさを我慢して建てるのかな」
「私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない。と書き綴った私よ、その私が決心して一箇所に古里を持とうとしている。これは私にとって一大決心なの、そして一個人の大革命なの。簡単にお上の言いなりにはなれません。それで山口氏とも打ち合わせをして、良い解決方法を見つけましたわ。二棟を別々に建てるの。1棟はあなた名義のアトリエ棟。もう1棟は生活棟、これは私名義ね」
「それは良い、ならば部屋数は収まるようだね」
「アトリエ棟は、私も好きなあなたの古里、長野の民家風にすればいいと思うの。民家風の大きな空間はアトリエに向いているのではないかしら。そして、生活棟は京都で見せていただいた大徳寺孤篷庵(こほうあん)の茶室『忘筌(ぼうせき)』がとても気に入りましたので、数寄屋を意識して造りたいわ」
「山口氏は数寄屋や民家も含めて『和の建築』をよくご存知だからね」
「自分の目で確かめるって大切だと痛感しました、同行くださったご両人も感激されていたようですし」
「僕も良い刺激をもらい、有意義な時間を過ごせた」
「素敵な建物を肌で触れ感じ取り、山口氏とお話し致し確信したのですが、住宅って施主の『ワガママ』を許してくれるって。私はこの戦時下では贅沢と言われても、どこかにゆとりのある家が欲しい。部屋にしても時と場合によっては使用目的を変えられるようにしたい。そのような住宅のゆとりが、私たちの心、精神的なゆとりにつながって、今後の私たちの創作活動にも大きな効果をもたらせてくれると思うの。ですから茶の間には広い縁も欲しいですし、北側には『忘筌』のような落ち着いた空間も欲しい、これらは間違いなく心のゆとりにつながると思います」
「確かに、そうだね」
「新築する時によく『間取り』という言葉を聞きますけれど、これは『空間の間」をとるともいえますが『生活の間』『心の間』『精神の間』をとることにつながっているのではないでしょうか。住宅によって、生活や性格、暮らし方も変わると思います。まさに、孟子さんが仰る『気は居を移す』です」
「なるほどねぇ」
「それとですね、生活部分とアトリエ部分は、今後の創作活動も含めた私たちが主役の空間ですから、この場所は茶の間や台所、お風呂にも予算をかけたいの、でも客間は来客が主役ですから、主役が引き立つ質素な部屋が良いのではないかしら。それは経済的な理由ではなく、私の気持ちの問題としてです。・・・」
平面図

決して他人には見せない人への気遣いは、とても彼女を憎めない一面でもあるが、またまた芙美子は理想の住宅を熱く語り始めている。多分、山口文象氏ならば必ず彼女の思いを表現する、素晴らしい建物を設計してくれるであろうし、同行した棟梁は巧みな技で実現してくれるであろうと確信している。
さて、もう少し彼女の熱弁に付き合うことにしようか。

この建物は、現在「新宿区立林芙美子記念館」として保存されています。

参考:
書籍|「日本の名作住宅の間取り図鑑 」大井 隆弘 著
   「落合文士村」目白学園女子短期大学国語国文科研究室著
WEB|Wikipedia

   新宿区立「林芙美子記念館」

新発田足軽長屋

新発田足軽長屋


建築年 天保13年
所在地 新発田市大栄町7丁目9-32

下級武士の暮らしを伝える長屋


江戸時代の新発田藩(しばたはん)藩主は石高6万石(のちに10万石)外様大名の溝口氏である。

軍事的理由により城下出入り口付近に配置された人数溜まりの一画、足軽町と呼ばれる上鉄砲町の裏に4棟建ち、城下絵図には「北長屋三軒割八住居」と記されている。
長屋は、間口24間奥行き3.5間、屋根は茅葺寄せ棟造りで8戸が入居する。積雪地ゆえ軒の高さは抑えられており、軒高は6尺強で居への出入りに腰がかがみぎみになるのは、寒冷期を思えば止むをえない。しかし、建物は軒の低さと深さは、どっしりとした安定感を与えているようだ。
平面図

「ごめんやす」
担いできた行李を軒下に置きながら旅商人は声掛けする。
「はぁい、ちょっとお待ちください」
奥の方から婦人の声がかえってきた、奥の方といっても、見るところ奥行3間半の長屋、ごく近いところから声が聞こえてきた。
「旅商人でござい、品を見てくれませんか」
「このような長屋住まいにお越しいただいても・・・、訪ねる場所をお間違えではありませんか」
そう言われれば、この長屋は周辺の足軽たちが暮らす屋敷より狭い。足軽よりもう少し身分の軽い者、いわゆる「小者」とされる者たちが暮らしているようである。
「品だけでもご覧ください」
「買えませんよ」
「もちろん」
「この屋敷は8軒ですか」
「そうです、北長屋三軒割八住居と言われており、部屋数は一緒ですが広さと間取りが異なる変わった造りですよ。お殿様か亭主にもう少し甲斐性があれば広い所に住めるのに・・・」
この時代で、このご身分では致し方ない、最近までは足軽のご身分でさえ、士としては認められていなかった。確か、加賀百万石のお膝元でも間口2.5間奥行6.5間程度、建坪14.5坪の手狭な居宅に暮らしている。旅商人は心の中で呟い他が、そのようなことは噯気にも出さず。
平面図

「建てられたのはいつ頃でしょうか」
「なんでも棟札には天保13年(1842年)と書かれているようです」
「ほうほう、決して大きなお屋敷とはいえませんが、趣好を凝らせたお住まいですな。ちょっと覗かせていただてもよろしゅうですか」
「あら、いやだね〜」
「各地のお屋敷を見るのが好きなんで、お願いします」
「まぁええか、ご覧の通り、この家屋は玄関土間に立てば奥までずっと見えるってもんよ」
「1坪の玄関は建具で仕切られており、土間と板敷が半々ですな」
「そう、この家と右隣だけは、玄関が1坪。その他の家は半坪の玄関土間のところに建具が入って、1畳でも部屋内を広くしたんだね。新発田は寒いからね。うちは、人がよく来るからさ、この方が冬場の寒い時に客が来ても、この建具を閉めておけば中まで冷たい風が入らないんでいいんだよ」
「なるほど、この家主は、住む方に合わせて造ったってことですかな」
「そこまで考えていたのかね、たまたまではないかい」
「この部屋は」と言いつつ、傍の板戸を引くとそこは4畳の畳の間である、この時間、幅6尺高さ2尺ほどの窓からは日が差し込み明るいが、そうでなければ薄暗いように思えるような小さな窓しかない。
「おや、誰が開けていいと言ったね」
「こりゃ失礼いたしやした」
「その脇が8畳の畳間で、ご覧の通り囲炉裏を切ってあるこの板間に続いている」
「その、8畳の奥は?」
「炊事に使う土間と、雨の日でも簡単な外仕事ができる下屋になっているよ」

全体平面図



この建物は、昭和44年の春頃まで住居として使用されていました。現在の建物は、昭和46年に解体修理に着手、翌47年6月に完成させたものです。【昭和44年12月18日、国重要文化財(建造物)指定】※清水園ホームページより

2016年5月22日日曜日

「平成28年重要文化財答申」新指定11件 追加指定1件

文化審議会は,平成28年5月20日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,新たに下記12件の建造物(新規11件,追加1件)を重要文化財に指定することを文部科学大臣に答申した。
この結果,官報告示を経て,国宝・重要文化財(建造物)は2,456件,4,825棟(うち国宝223件,282棟を含む。)となる予定です。

【重要文化財 新指定の部】

写真「宮城県」http://www.pref.miyagi.jp
1|外国人宣教師用住宅の最初期の遺例(近代/住居) 
東北学院旧宣教師館 (とうほくがくいんきゅうせんきょうしかん)1棟
宮城県仙台市|学校法人東北学院



画像「福島県伊達市観光・歴史建築見所ナビ」http://www.fukutabi.net/fuku/date.html
2|外観洋風、内部和風で,地方的特色も備えた大型住宅(近代/住居) 
旧亀岡家住宅(きゅうかめおかけじゅうたく) 1棟
福島県伊達市|伊達市



画像「太田市」http://www.city.ota.gunma.jp/index.html
3|中島飛行機製作所創業者が営んだ大規模住宅(近代/住居) 
旧中島家住宅(きゅうなかじまけじゅうたく)4棟 主屋、土蔵、氏神社、正門及び門衛所,
群馬県太田市|太田市



写真「株式会社三越伊勢丹ホールディングス」http://www.imhds.co.jp
4|百貨店建築の発展過程を具現する意匠秀麗な大規模商業施設(近代/商業・業務)
三越日本橋本店(みつこしにほんばしほんてん ) 1棟
東京都中央区|株式会社三越伊勢丹




画像「東京の観光公式サイト|GO TOKYO 」https://www.gotokyo.org/jp/index.html
5|江戸の庶民信仰の隆盛を伝える鬼子母神堂(近世以前/神社) 
雑司ヶ谷鬼子母神堂(うしがやき しもじんどう) 1棟
東京都豊島区|宗教法人法明寺




画像「能登半島観光ポータルサイト|のとネット」 http://www.notohantou.net
6|日本海に臨む北前船主集落で豪壮な屋敷を構える船主の住宅(近代/住居)
旧角海家住宅(きゅうかどみけじゅうたく)5棟・主屋、家財蔵、塩物蔵、小豆蔵、米蔵)土地
石川県輪島市|輪島市




画像「松坂市」http://www.city.matsusaka.mie.jp/
7|伊勢における江戸店持ち商家の発展を示す町家建築(近世以前/民家)
旧長谷川家住宅(きゅうはせがわけじゅうたく)8棟
主屋、大正座敷、大蔵、新蔵、米蔵、西蔵、表蔵、離れ
三重県松阪市|松阪市




画像「比叡山延暦寺」http://www.hieizan.or.jp
8|比叡山延暦寺で江戸時代前期に再興された堂舎群(近世以前/寺院)
延暦寺(えんりゃくじ) 11棟
文殊楼、山王社、浄土院伝教大師御廟、浄土院唐門、浄土院拝殿、阿弥陀、
堂鐘楼、西塔鐘楼、四季講堂、元三大師御廟拝殿、横川鐘楼、慈眼堂
滋賀県大津市|宗教法人延暦寺




画像提供「倉敷市」http://www.city.kurashiki.okayama.jp/
9|15連の大規模な配水樋門を持つ大正期の農業用水施設(近代/産業・交通・土木)
高梁川東西用水取配水施設(たかはしがわとうざいようすいしゅはいすいしせつ)3基1棟
酒津取水樋門、南配水樋門、北配水樋門事務所、土地
岡山県倉敷市|高梁川東西用水組合




画像「おかやま旅ネット」http://www.okayama-kanko.jp
10|城下町で酒造業により発展を遂げた上質な住宅と醸造施設(近世以前/民家)
旧苅田家住宅(きゅうかんだ けじゅうたく おかやまけんつやましかつま だまち )10棟
主屋、三階蔵、米蔵、前蔵、西蔵、大蔵、醤油蔵、新蔵、巽門及び浴室、裏門
岡山県津山市勝間田町|津山市



画像「臥龍山荘公式サイト」http://www.garyusanso.jp
11|河岸の景勝地に営まれた意匠優美な近代数寄屋建築(近代/住居)
臥龍山荘(がりゅうさんそう) 3棟・臥龍院、不老庵、文庫
愛媛県大洲市(おおずし)|大洲市




【重要文化財 追加指定の部】
1|中国地方山間部における上層農家の屋敷景観を伝える施設群(近世以前/民家) 
奥家住宅(おくけじゅうたく) 1棟・土蔵、土地
広島県三次市|個人




2016年5月10日火曜日

森鴎外・夏目漱石が暮らした家

文豪二人が暮らした千駄木の家


建築年 大正10年頃
所在地 愛知県犬山市|博物館明治村


江戸期の武家住宅を引継ぐ家


路傍をさまよっていた我輩をこの邸(やしき)に「鶴の一言」で、住込みを許してくれたご主人様は我儘(わがまま)で、飽き性で、怒りっぽく、無頓着で、読書とは書籍を枕にして寝ることだと信じている自称「教師」のご主人様ですが、我輩をこの家に迎え入れたことを期に、我が国を代表する文豪の一人となることは、呑気な性格上今は知るよしもない。ましてや自分の肖像がお札に印刷されるなどと予想だにしていなかったであろう。

平面図
この邸は東京駒込千駄木に佇む。後々聞いた話では、明治23年に実業家中島利吉が、子息の医学士中島譲吉のために新築されたものだそうで、39坪木造平屋建てである。譲吉は何か不満があったのか、外にもっと居心地が良い宅があったのか、この家に住むことはなく明治23年からの1年間は森鴎外が借り受け、36年から39年までは主人が借りていた。
造りは玄関、座敷、縁、台所、おさんの部屋(女中部屋)、風呂、厠と、我輩が尊敬する筋向こうの白君の屋敷や、隣家に住む三毛君の屋敷、また彼らと伴って、ご近所の住まいへこっそりと侵入した屋敷も部屋数や大きさ、位置は違えどもどの屋敷もよく似ている。ただ、車屋の黒さん屋敷はもう少し大きいようである。

我輩が住むこの家は、ちょっと変わっており、庭先の井戸から汲み上げた水を貯める水瓶の左側柱には柄杓や杓文字を刺しておく、節上で斜めに欠き込んだ竹が取り付けられていて、さらに柱横に湯殿の入り口がある。なんとこの湯殿にはもう一つ出入り口があり、北側の縁に通り抜けることができる。つまり、湯殿には2箇所の出入り口があるため、もし湯殿で悪さをして尻を叩かれそうになっても2方向に逃げ道があるのだ。

そして、変わっていることはもう一つ、炊事場から茶の間へ通じる中廊下が設けられていることです。

実業家が新築した家といえども、聡明な方であれば、この時代の一般的な邸の間取りの構成が江戸時代の武家住宅を引き継ぎ、さらには民家の延長線上にあることを見抜いているのではないかと思う。つまり、床の仕上げと室名こそ違えども玄関台所が「にわ」であり、書斎部分は「まや」次の間に囲炉裏が切ってあり、座敷裏には「なんど」と呼ばれていた寝間があった。後世に「猫の部屋」と呼ばれるようになった我輩がよく過ごしていた、というよりここの主の書斎は、畳の替わりに板や絨毯で仕上げられ、応接間へと変化していったと唱える者も出てくるようだ。

飼い主に似て縁で昼寝に興じていたが、小便を催し伸びをして大きな欠伸をすると、

「この馬鹿野郎動くんじゃない」


2016年5月6日金曜日

文豪 夏目漱石が暮らした松山の家「愚陀仏庵」


愛媛県松山市「愚陀仏庵」

建築年 明治期

所在地 現存せず


日本最古の巨大地震記録

日本書紀には天武天皇13年10月14日(684年11月29日の頃)日本で最初の巨大地震の記述があり、南海トラフ巨大地震の一つと考えられている。地震学者の今村恒氏により「白鳳大地震」と名づけられた。その被害は、かなり広範囲で甚大で、土佐では田畑12Km2が海中に没し、伊予温泉の水脈が埋もれて湧出が止まったとされている。

「白鳳大地震」で湧出が止まったとされる「伊予温泉」は現在の「道後温泉」であり現在、源泉は29本あり内19本が愛媛県に登録されている。そのうち18本で温泉を汲み上げているようだ。源泉の位置は変われども道後温泉は広く国内外に知られ「日本最古の温泉」と道後温泉協同組合のホームページ|http://www.dogo.or.jp|で紹介されている。

中でも「道後温泉本館」は松山市の道後温泉の中心にある温泉共同浴場で、その権利は松山市が有していて、愛称「坊っちゃん湯」とも呼ばれているようだ。この「坊ちゃん」は夏目漱石が、この地に中学校教師として赴任していることから名づけられたことは、みなさんご存知の通りです。ちなみに夏目漱石が、この地に赴任したのは「道後温泉本館」が完成した翌年のこと。
1階平面図

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ、「愚陀佛庵」は全壊している。


建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとしているが趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたのではなかろうか。
2階平面図

夏目漱石がここに住み始めて4ヶ月後、日清戦争に記者として従軍従軍して帰還した一高時代(東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)の同級生、正岡子規が52日間滞在(静養)している。

※ 道後温泉本館は2017年10月頃から耐震改修工事が行われる予定。
※「愚陀仏庵」は2010年に全壊したのち再建計画は具体化していない様子です。


参考:
書籍|
「地震と噴火の日本史」伊藤和晃著:岩波新書
「間取り百年」吉田桂二著:彰国社刊
WEB|
道後温泉協同組合「道後温泉物語」|Wikipedia



夏目漱石が松山市で暮らした1年

この間取り図は、夏目漱石が松山で住んでいた家で、本人が「愚陀仏庵」と命名したとされている。元の建物は松山市二番町(3丁目7)上野家の離れであったが、終戦直前の7月、松山大空襲で焼失してしまい、1982年(昭和57年)に松山城山腹で復元された。しかし復元された建物も2010年7月12日、午前6時ころからの記録的な豪雨で松山城の城山において発生した大規模土砂崩れで山腹の土砂が崩れ「愚陀佛庵」は全壊している。

建物は「離れ」らしく2階建で上下2室あり座敷と次ノ間の関係で、こじんまりとした趣のある建物である。厠は設置されているが台所や風呂はなく、食事は右下に延びる渡り廊下を通り母屋の世話になっていたと思われる。しかし時世から当時相当の知識人である文学士漱石が母屋へ食事をしに渡り廊下を渡っていくとは思えない。またこの離れの主、上野家がそれを許すはずもなく、相当に大きな邸宅だった上野家では、漱石の身の回りを世話する使用人がお膳を運んできていたのではないだろうか。

食事は運んできたとしても浴槽を運んでくることは難しく、入浴は母屋を利用しに行っていたのであろう。しかし風呂好きだったとされる漱石は新築直後の道後温泉にも通っていたようで、友人の狩野亮吉へ宛てた手紙で
「道後温泉は余程立派なる建物にて八銭出すと三階に上がり茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるという様な始末随分結好に御座候」(明治28年5月10日付け)と伝えている。漱石がこの「愚陀仏庵」に移り住んだのが6月下旬なので、この手紙はそれ以前のこととなる。

また、アメリカ人教師 C・ジョンソンの後任として正岡子規の母校松山中学校に嘱託職員として赴任した漱石の給与は80円、小学校教諭、巡査の初任給が8〜9円、蕎麦代が2銭ほどの時代で、かなりの高給取りだった。道後温泉で1回8銭支払っても、さほど気にすることはなかったかもしれない。
しかし、この愚陀仏庵から前年に完成した道後温泉本館まで約2.7Kmほどある、松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)からまっすぐ帰ってくると約1.2Kmにあった下宿先に道後温泉に立ち寄り帰宅すると約4.2Kmとなる、いくら宿直などの学校業務を免除され担任も持たなかった漱石であっても学校帰りにこの距離を通っていたとは考えにくく、やはり入浴は母屋の浴室を使っていたのであろう。

明治28年5月26日付で「教員生徒間の折悪もよろしく好都合に御座候」と松山中学校の感想を伝えた正岡子規(日清戦争に記者として従軍の帰路喀血した正岡子規は、この時期病気療養中であり神戸病院もしくは須磨保養院でこの手紙を受け取ったものと思われる。)が神戸で療養のあと松山に帰りこの庵に8月27日〜10月17日までの五二日間、子規はここに起居して共に暮らしている。病身で身長163.6Cmの子規は1階の6帖に万年床を敷き、身長159Cmの漱石は2階で寝起きしていたようだ。この場合身長は関係ないが、豆知識として加筆た。



2016年5月3日火曜日

金沢足軽住宅

加賀藩足軽屋敷

建築年 江戸時代
所在地 金沢市長町1-9-3

庭付き平屋一戸建ての足軽屋敷


建坪20坪余りの家族だけで生活した江戸期平屋一戸建ての足軽住宅は、明治期以降の勤労者住宅の基本と考えてもいいでしょう。
高西家
足軽たちが暮らした住まいといえば、重要文化財として指定されている「旧新発田藩足軽長屋」(新潟県新発田市)に代表されるように、長屋形式として一般に知られています。しかし加賀百万石の城下に住んだ足軽たちは、庭付き一戸建住宅に暮らしていました。ただし、生垣を回した庭は観賞用というより、果物の実る木や野菜を植えた菜園としての役割が大きかった。加賀百万石の大藩で裕福であったかといえばそうでもなく、足軽達の表米はおよそ年間25俵、大雑把に現代の貨幣価値に換算すると年俸125万円※でしかない。江戸期の物価を覗いてみると、落語によく登場する二八蕎麦は16文(400円)居酒屋の酒1合は32文(800円)中級旅籠(今のビジネスホテル相当)だと200文(5,000円)からも考えて、庭付き一戸建てに住んでいても台所事情は厳しかったようで、自給自足も頷ける。また、当時の大きな問題※であった類焼予防のため、消火しやすい平屋戸建てを選んだとも考えられます。

清水家
ここで紹介する足軽住宅は、金沢市内に現存していた江戸時代の下級武士である足軽の屋敷2棟で、1997年(平成9年)11月に移築再現されている。
保存展示されている足軽屋敷は高西家と清水家の2棟。高西家(左図上)の足軽屋敷は、加賀藩の足軽飛脚の屋敷地であった旧早道町(現・金沢市菊川二丁目)に残され、1994年(平成6年)まで住居として使用されていたもので、清水家(左図下)の足軽屋敷は旧早道町(現・金沢市幸町)に残され、明治時代以降も代々足軽の子孫が受け継ぎ、1990年(平成2年)まで住み続けられていたものです。いずれも木造平屋建て、石置き板葺の平入り切妻造で、玄関から座敷に続く接客空間と、台所や茶の間などの生活空間を並列させ質素倹約を旨とした、加賀藩武家の意向がうかがえる間取りです。

※貨幣価値換算
一石=十万円、一石=2俵(加賀藩の一俵は5斗入り)と換算しています。一説には1俵=1石=1両と解説されている方もいらっしゃいますが、これですと江戸期の物価、前述の二八蕎麦16文が800円相当になり違和感を覚えますので、ここでは1石=2俵と換算した400円の方がしっくりするので、1石=2俵としています。
※俵・石換算
戦国時代から江戸時代には概ね1俵は2斗から5斗と時代や土地ごとに異なり、幕府は1俵=3.5斗、加賀藩は1俵=5斗を基準としていた。現在の1俵=4斗(0.4石:60Kg)1石=2.5俵と全国的に統一されたのは明治時代になってからです。

※金沢の消防 平成13年度近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料より
江戸屋敷では「加賀鳶」と称する防備を任務とした火消人足を雇っていた加賀藩の地元金沢では、施設や寺社をその防備対象とする武士の消防組織として「定火消」の役がおかれていた。また、町方では藩初から町ごとに防火設備の設置や、消火道具の設置、火の用心を命じており、各町に防備組織が 作られていた。
この資料から慶長10(1605)年10月30日金沢城天守閣落雷、大台所本丸全焼火薬庫爆発という記載から始まり、記録では寛永8(1620)年4月14日「法船寺前民家から出火、河原町から金屋町まで1000軒消失」から始まり、230余年の間に罹災件数100軒以上の大火だけでも42件と、5年半に一度は100件を超える火災が発生していることになる。中でも「寛永12(1635)年5月9日河原町後から出火、浅野川持下屋敷など 10,000軒」、「宝暦9(1759)年4月10日泉野寺町舜昌寺から出火、博労町まで 10,818軒」などの大火が発生していると記載されている。

参考:
金沢市足軽資料館資料
平成13年度 近世史料館春季展「金沢の火事と加賀鳶展」資料



 北陸新幹線が開業して1年、2016年4月13日に利用者が1000万人を突破した。JR西日本が当初想定していた在来線特急の2倍程度の乗客数を大幅に超え3倍で推移し、好調が続いているとしている。

第二次世界大戦時に空襲を免れた金沢。京都でも1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度、奈良市内は同年6月1日に初空襲を受けたのち3回ほどの被害がもたらされている。現在、古都とも呼ばれる金沢は主要な軍事施設や工場が無かったためか大規模な空襲から逃れ、古い街並みが残っている。中でも武家屋敷が今でも多く残る長町(ながまち)には、江戸期に同市内に建築された加賀藩の足軽住宅(武家屋敷)を、ほぼ原型の通り移築し保存されている。ちなみに入館は無料だ。

足軽住宅は長屋形式だと思われがちだが、加賀藩のこの足軽住宅は立派な一戸建てだ。さすが100万石のお膝元で財政的に豊かだった、家来には理解力が深く快適な住環境を提供したかった、という声も聞こえるが、その真意はわからない。ただ、江戸時代には、その禄高により土地面積も屋敷面積も決められていたので、この御定書によるものには間違いないと思う。

間取りを見ると接客のための部屋が充実していることに気づくだろう。この時期の武士はとにかく血のつながりを大切にしており、親戚だけでも3、4日に一度はお互いの家を訪ねていたようで、接客の間は非常に重要な位置を占めていたようだ。

どちらの住宅「清水家(上図)」「高西家(下図)」にも玄関には接客の間があり「厠」は2箇所設けられている、室内は武家住宅らしく飾ったところもなく均整が取れ、シンプルで清々しさを感じる空間である。