2016年7月1日金曜日

公営住宅51-C型

公営住宅51-C型
ダイニングキッチンの発祥
設 計 日本住宅公団
建築年 1951(昭和26)年
面 積 40㎡
公営住宅標準基本プラン

時代背景

戦後は420万戸ともいわれる住宅不足から、昭和26年に個人住宅新築を対象として融資を行う住宅金融公庫法が施行を皮切りに、昭和27年には、戦後の住宅困窮者には家賃補助を行い、低額で入居できる公営住宅法が施行され、建設が始まる。公営住宅は収入上限を設定しており、福祉住宅としての性格が強かった。さて、勤労者、なかでも中産階級を対象とした住宅としては、昭和30年になりようやく分譲及び賃貸住宅を建設するための日本住宅公団法が施行され、初の入居者募集を開始したのが、翌年1956(昭和31)年3月19日に千葉の稲下団地(普通分譲住宅)と大阪の金剛・東長居両団地(賃貸住宅)で、同年5月1日には千葉稲毛団地で入居が開始される。また、東京葛飾区青戸団地では4階建て38棟の建設は夜間の突貫工事を遂行し、入居者の募集を開始したのが同年7月入居を開始したのが11月であった。ちなみに第1号の賃貸住宅である金岡団地(大阪・堺市)の家賃は2DK(6畳と4畳半に台所)で、月4,600円、入居資格は月収25,000円以上を申し込み条件としている。それでも入居希望者が多く、時には100倍の抽選倍率となっており、まだまだ住宅不足の解消に向けて半歩ほど踏み出そうとしている状態であった。
「51C-N型」平面図

公営集合住宅建設

空襲により壊滅的に破壊された東京都心部の住宅復興のため、戦後最初に本格的な鉄筋コンクリート造で建設されたのが、1947(昭和22)年に設計され、翌年1948(昭和23)年6月に一期工事が完成した東京都営高輪アパートである。平面的には「食寝分離」されていない2Kタイプで、一期の設計は47型といわれ、これに改良を加えた48型による公営住宅が全国の6大都市と、原爆投下された広島市と長崎市に建設された。 高輪アパート本体の平面は見つけられませんでしたが、48型に近いことが予想される。本格的な公営住宅標準設計は1949年の49型であるが、この段階の平面も2Kタイプで「食寝分離」なされていない。また基本設計ではベランダとされているところを無理やり浴室を設けたために、台所は日中でも照明をつけなければいけなかったことが予想される。
その後、福岡県住宅協会の資料から、50B、50D、50P型の公営住宅も建設されていたようであるが、何れにしてもこれらの住宅は「食寝分離」はなされていなかったと思われる。
「51C-S型」平面図

公営住宅51C型

このような時代の中、1951年には標準設計の質を上げるべく委員会が設けられ、建築家東京大学建築学科の吉武研究室の吉武泰水(1916-2003年)、鈴木成文(1927-2010年)らが、西山夘三(にしやま うぞう 1911-1994)が提唱する、食事の場所と就寝の場所を分離する「食寝分離論」と、親と子の就寝空間の分離「寝室分離」をコンセプトにした51型A・B・Cの3タイプを標準設計として提案したものが採用される。設計コンセプトから51型A・Bタイプは台所と居間・食堂は分離されており床面積も当時の慣例から考えると、それぞれ16坪と14坪の間取りであったと考えられ、実際に福岡県住宅協会型式別供給戸数から、福岡県では1951年には51Aが104戸、51Bが同じく104戸、1952年には51Aが96戸供給されている。さて、最も小さい51C型は、この条件を12坪(40㎡)に収められており、台所と居間食堂を分離できずに、広めの台所空間の中に食堂機能をもたせたオープンプランのダイニングキッチン(DK)を採用した。資材と住宅不足の中でも、早期に問題の解決を図る必要のあった時代で、当時の庶民の慣例「食寝分離」を満足させ40㎡以内に収めたこのプランは、その後の公団住宅建設の標準モデル作成にあたり、この51C型が原型とされることになった。51C型には階段の位置により、ーNとーSの2タイプが基本とされ、各地方自治体により多少手を加えて建設されている。

日本公団住宅

1955年に発足した日本住宅公団では公営住宅標準設計51Cを原型にして、新たに浴室(木製浴槽)とスチールドア、シリンダー錠、スチールサッシ、ステンレス流し台、合板を使ったフラッシュドア、ガス風呂、衛生陶器、換気扇などそれまで高給住宅でも採用できなかった建築材料を、メーカーに対し大量生産化とローコスト化の開発を依頼し、これらの採用に取組み55C、55Dと呼ばれた標準設計図書を作成している。
台所の設計は、日本で最初の女性建築家とされる浜口ミホ(美穂、はまぐち みは、1915年-1988年)が貢献しており、台所を機能的で明るい場所にすべきと提案し、それまで多少なりとも不潔なイメージであったセメント製の「人研ぎ」と呼ばれる流し台を清潔なステンレス流し台と収納力確保のために吊棚の採用を促している。ちなみにステンレス流し台を大量生産生産する開発を行ったのがサンウェーブで、1956(昭和 31)年 9月 30日 に一体絞り型シンク生産に成功しており公団住宅の台所に最初に設置されたのは、東京葛飾区青戸団地であったと思われる。


参考
「51Cの地方都市における展開 一福岡県住宅協会が建設した51C型住宅一」
菊地成朋 山口謙太郎 柴田建 田島 喜美恵ら
「ステンレスによる一体絞り型シンクの開発過程と戦後の技術革新の特徴について」
藤谷, 陽悦; 内田, 青蔵; 安野, 彰; 柳田, 伸幸
国立国会図書館第119回常設展示資料平成14年4月1日~5月31日開催
「日本の集合住宅―アパート、マンションに見る 20 世紀 」

Wikipedia

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