2016年7月1日金曜日

幸田露伴「小石川の蝸牛庵」

傳通院前「蝸牛庵」


建築年 不明
所在地 文京区小石川3-17-16

2階の書斎から大きなが見えた家

昭和12年、第一回文化勲章受章者「幸田露伴」は自邸を「蝸牛庵」と称していた。今では「蝸牛庵」といえば名古屋「博物館明治村」に昭和47年移築し保存されている建物が有名であるが、米大統領が搭乗する航空機を「Air Force One」と呼称されるように露伴が住んでいる住宅を「蝸牛庵」と称していた。まずは「人ありき」なのである。

建築にも造形が深く、岩波書店創業者の岩波茂雄が、吉田五十八に設計を依頼し静岡県熱海市に建築した別荘「惜櫟荘」を訪れ、あまりにも部屋から海が見えすぎる建物を見学し、同行した小林氏に「利休は、海すこし見ゆ、と言っている」と、その感想を伝えている。
1階平面図(想像)

釣りを好んだ露伴は隅田川に愛着があったようで、向島では3軒の住宅に移り住んでいる、一軒めの住宅は不明(ご存知の方にご教示いただければ幸いです)であるが二軒めの住宅は墨田区東向島1−9−1※)に建つ「甲州屋」という酒問屋を営む雨宮家別邸に移り、明治30年から明治41年(露伴30歳から41歳)まで住んでいた。この建物は明治初年代に新築され現在「博物館明治村」に保存されている建物である。来客を迎えやすそうな玄関の造りと「厠」が大小合わせて3箇所、縁と廊下に囲まれ独立した1階の座敷、2階は一部屋という平面から江戸時代の粋な旦那衆が、この建物で芸妓とともに接待や遊興に使われていた、もしくは使おうとしていた建物と想像できる。

※東向島3丁目26番地と記載されているものも見かけましたが、ここでは地図により東向島1-9-1と記載しています。

その後、明治41年(1908)東京都墨田区東向島1-7-12の敷地で自分で家を設計し、「蝸牛庵」と名づけて暮らし始め、大正(1923)年9月1日に発生した関東大震災で井戸に油が浮くようになったため、大好きな隅田川を離れ、大正13年小石川へと転出しました。この敷地は現在、露伴児童遊園となり、この家で書かれた「運命」の碑が建てられている。

2階平面図(想像)

大正13年(1924)6月に移転した住まいは伝通院前の映画館裏にあり住所は小石川表町66番地(現:小石川3-3-8)にあり、2階建て2軒長屋であったという。

昭和2年5月に岩波書店の小林勇氏に紹介された小石川表町79番地(現:小石川3-17-16)に移る。小生が勝手に「傳通院榎蝸牛庵」と名付た今回紹介する「蝸牛庵」である。この建物の前には大きな榎が生えており、当時は2階書斎からこの榎が見え、夏には部屋を緑色に染めるほどだったようで、現在でも伝通院前を右に曲がり少し下って行くと目前に現れる。家賃は当時100円だったそうである。当時の家賃は朝日新聞の「値段史年表」によれば板橋区の仲宿(中山道沿い)における一戸建て、または長屋形式(6畳・4.5畳・3畳・台所・洗面所)家で昭和3年に11円50銭。公務員の初任給が大正9年から昭和12年までが75円、小学校教員の初任給は大正9年から昭和6年の期間でおおよそ50円とされている。現在でいえば45万円前後の家賃だろうか。

この間取りは小林勇氏が執筆した「蝸牛庵訪問記」岩波書店1956、講談社文芸文庫1991を基に小生が想像して作図しており実際の建物と異なる場合も考えられることをご了承ください。また、この間取りをご覧になりご意見やご指摘いただければありがたいです。


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