2016年7月1日金曜日

新発田足軽長屋

新発田足軽長屋


建築年 天保13年
所在地 新発田市大栄町7丁目9-32

下級武士の暮らしを伝える長屋


江戸時代の新発田藩(しばたはん)藩主は石高6万石(のちに10万石)外様大名の溝口氏である。

軍事的理由により城下出入り口付近に配置された人数溜まりの一画、足軽町と呼ばれる上鉄砲町の裏に4棟建ち、城下絵図には「北長屋三軒割八住居」と記されている。
長屋は、間口24間奥行き3.5間、屋根は茅葺寄せ棟造りで8戸が入居する。積雪地ゆえ軒の高さは抑えられており、軒高は6尺強で居への出入りに腰がかがみぎみになるのは、寒冷期を思えば止むをえない。しかし、建物は軒の低さと深さは、どっしりとした安定感を与えているようだ。
平面図

「ごめんやす」
担いできた行李を軒下に置きながら旅商人は声掛けする。
「はぁい、ちょっとお待ちください」
奥の方から婦人の声がかえってきた、奥の方といっても、見るところ奥行3間半の長屋、ごく近いところから声が聞こえてきた。
「旅商人でござい、品を見てくれませんか」
「このような長屋住まいにお越しいただいても・・・、訪ねる場所をお間違えではありませんか」
そう言われれば、この長屋は周辺の足軽たちが暮らす屋敷より狭い。足軽よりもう少し身分の軽い者、いわゆる「小者」とされる者たちが暮らしているようである。
「品だけでもご覧ください」
「買えませんよ」
「もちろん」
「この屋敷は8軒ですか」
「そうです、北長屋三軒割八住居と言われており、部屋数は一緒ですが広さと間取りが異なる変わった造りですよ。お殿様か亭主にもう少し甲斐性があれば広い所に住めるのに・・・」
この時代で、このご身分では致し方ない、最近までは足軽のご身分でさえ、士としては認められていなかった。確か、加賀百万石のお膝元でも間口2.5間奥行6.5間程度、建坪14.5坪の手狭な居宅に暮らしている。旅商人は心の中で呟い他が、そのようなことは噯気にも出さず。
平面図

「建てられたのはいつ頃でしょうか」
「なんでも棟札には天保13年(1842年)と書かれているようです」
「ほうほう、決して大きなお屋敷とはいえませんが、趣好を凝らせたお住まいですな。ちょっと覗かせていただてもよろしゅうですか」
「あら、いやだね〜」
「各地のお屋敷を見るのが好きなんで、お願いします」
「まぁええか、ご覧の通り、この家屋は玄関土間に立てば奥までずっと見えるってもんよ」
「1坪の玄関は建具で仕切られており、土間と板敷が半々ですな」
「そう、この家と右隣だけは、玄関が1坪。その他の家は半坪の玄関土間のところに建具が入って、1畳でも部屋内を広くしたんだね。新発田は寒いからね。うちは、人がよく来るからさ、この方が冬場の寒い時に客が来ても、この建具を閉めておけば中まで冷たい風が入らないんでいいんだよ」
「なるほど、この家主は、住む方に合わせて造ったってことですかな」
「そこまで考えていたのかね、たまたまではないかい」
「この部屋は」と言いつつ、傍の板戸を引くとそこは4畳の畳の間である、この時間、幅6尺高さ2尺ほどの窓からは日が差し込み明るいが、そうでなければ薄暗いように思えるような小さな窓しかない。
「おや、誰が開けていいと言ったね」
「こりゃ失礼いたしやした」
「その脇が8畳の畳間で、ご覧の通り囲炉裏を切ってあるこの板間に続いている」
「その、8畳の奥は?」
「炊事に使う土間と、雨の日でも簡単な外仕事ができる下屋になっているよ」

全体平面図



この建物は、昭和44年の春頃まで住居として使用されていました。現在の建物は、昭和46年に解体修理に着手、翌47年6月に完成させたものです。【昭和44年12月18日、国重要文化財(建造物)指定】※清水園ホームページより

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