2016年7月1日金曜日

吉田五十八「小林古径邸」

日本画家が暮らす近代数寄屋住宅「小林古径邸」 

設 計 吉田五十八(よしだ いそや |1894~1974)
建築年 1934 : S9年
規 模 延べ床面積215㎡|木造二階建て
建築地 東京府東京市大森区馬込町(現 東京都大田区馬込)
現住所 新潟県上越市本城町7−7(小林古径記念美術館)
    平成10年9月、高田城二の丸跡内に復原工事

「新しい数寄屋」日本建築史の上でも重要な建築物

小林古径(こばやしこけい)|1883~1957 
    日本画家|代表作「髪」1950年(昭和25年)文化勲章受章
吉田五十八(よしだいそや)|1894~1974 
    近代数寄屋の大家|1964年(昭和39年)文化勲章受章
吉屋 信子(よしや のぶこ)|1896~1973 
    小説家|『安宅家の人々』『鬼火』日本女流文学者賞受賞

1階平面図

野分の後、道端の草花が倒れた向こうに、輝いた青空を背にして端正な切妻の建物がすっきりと佇んでいる。

玄関先にはこの家の主人、小林古径さんと、設計者の吉田五十八さんと、もう一人ご職人さんらしい殿方の三名が、旧知の間柄のような和やかな雰囲気で、建物を眺めている。無口だと評判の古径さんは、二人の話を聞いて頷いているだけのようだ。
「ごめんください」
傍の千代と一緒に挨拶をする。

2階平面図

「やあ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
丸い眼鏡を掛け、蝶ネクタイ姿の吉田さんが微笑んでいる。
「・・・・・ようこそ」と、古径さん

「あっ、初めてですね、こちら京都の宮大工棟梁である岡村仁三さん。日本の伝統構法を受け継ぐ名人で、この家の棟梁です」
「初めまして、吉屋です。こちらは秘書の千代、お見知りおきを」
「この家の棟梁を仰せつかった岡村と申します」
一通りの挨拶を済ませ、家の周りを眺めながら歩いている古径に目を向けながら
「先生は随分とご執心のご様子ですわね」
「そうなんですよ、この家が完成して約半年。今日は、お引っ越しされて何か不都合な箇所がないかと、吉田先生と共に建物の様子を見に来たら、古径先生はまだ引っ越しをなされていないというじゃありませんか、驚きましたよ」

「あら」
「なんでも、こんなにいい家ができようとは思わんかった。住まうにはもったいないから、当分は眺めて楽しんでいるそうです。嬉しいですね、職人冥利につきる褒め言葉です。そうではありませんか、先生」
「その通り、私の設計した建物を古径先生が眺めておられる光景は、いかにも古径先生らしい画境が、建築の上にも躍如としてあらわれ、設計者として、私もほんとうにうれしく感じています。なにしろ、古径氏は有名な無口で、1日なにもしゃべらなくとも平気な方、設計になにも注文が出ない、困りに困ってやっとのことで間数だけははっきり伺いましたが、いったいどのような家がご希望なのか皆目わからない、ようやくいただいたお返事が、
『私にもよくわからないが、とにかく、私が好きだという家をつくってください』と、まるで禅問答のようなお答えでした」

「古径先生らしいですわね。ですけども、吉田先生はそのお言葉だけでこのお住まいを設計されたのですか」
「これも建築修行の一つだと心得、古径先生のことを勉強して、苦心惨憺の上、誰が見ても古径先生らしい家と、感じる家をつくったのです」

「まあ、建築家というご職業は、そのような離業もおできになるのですか」

「長唄もそうですが、画から感じるんです。古径先生も仰っているが、いい作品というものは本来、作者が口で説明するものではなく、能書きがなくても作品そのものが見る人、使う人に語りかけ問いかけてその価値を知らしめるものであるものと考えています。昔から芸術芸能にたずさわっている者は、芸の慣れを一番恐ろしがっているといいます。古径先生も、写生するときは、決して筆を使わないで鉛筆を使っています。これは筆になれることを怖がっているからであると言ってました。このような先生だからこそ、画から伝わってくるものを感じることができたのでしょう」

「なんだかわかるような気がします。私も欧州で絵画や建物を拝見したときに、何か作品から語りかけられたような感覚を味わったことがあります」

「そうでしょう、それが本物です。まあ好き嫌いもありますが」

「お見受けいたしましたところ、古径先生は随分とこのお住まいがお気に入りのご様子ですけれど、住宅建築の極致とはどのようなものでしょう」

「新築のお祝いに呼ばれて行って、特に目立って褒めるところもないし、と言ってまたけなすところもない。そしてすぐに帰りたいといった気にもならなかったので、つい良い気持ちになってズルズルと長く居たといったような建築が、これが住宅建築の極致である 」

「うまい芸をなさる方が、やまをやまに見せず、また普通の人が見落とす何でもないところをやまに見せる・・・」

「さすが、よくご存知ですな」

「これでも、結構多忙な執筆をいたしておりますのよ」

「そうでした、これは失敬。そして住宅は住む宅で、どこまでも見せる宅ではない。だから家人にとって住みいい家であり、また来る客が長く居られて家人と親しめる家であって欲しい、日本人には日本特有の雰囲気がかもし出された家が本当にいい住宅であると思う。もう一つ言えば、少くとも住宅をつくる時は、ビルディングを建てる以上注意して将来その家屋が売買される場合、値打ちの下るやうな家を建ててはいけない。高く売れる家を建てるのが建築家の義務で、財産を減らすやうな家をたてた場合、その建築家は当然責められるべきである」

「先生がお考えのというか、その新しい数寄屋を思う存分おやりになりましたか?」
「この古径先生のお宅で、かなり自由にさせていただきましたが、あまりやりすぎると叱られそうな気もしてね、なにしろ小林古径先生のお宅ですから多少の気兼ねもあります」
「そうですか、では私の家を先生の思う通りにおつくりになっていただけませんか。私はなにも文句は申しません」

「それは嬉しいことを仰る。私のやりたいこと、してみたいこと全部やってみてもよろしいと申しているのですか」

「もちろんでございます」

「それは、私の新しい数寄屋発祥の家になりますな」

「それは楽しみでございますこと」


小林古径記念美術館
現存する吉田五十八の建物は非常に少なく、この移築された小林古径氏の住宅は、吉田氏がご自身で語る「新しい数寄屋」が確立される直前の建物で、戦後日本の建築界に大きな影響を与える貴重な作品である。
現在、吉屋信子記念館として保存されている建物も吉田五十八の設計により、1962年に新築された2軒目の家です。

主な住宅作品
1932年 鏑木清方邸 現存せず(鎌倉市鏑木美術館2階に画室を模して採り入れ)
1934年 小林古径邸・画室 (新潟県上越市に移築)
1940年 惜櫟荘岩波茂雄別邸 (静岡県熱海市)
1952年 梅原龍三郎画室(清春白樺美術館:山梨県北杜市長坂町中丸2072 に移築
1954年 山口蓬春画室 (現・山口蓬春記念館/神奈川県葉山町)
1958年 梅原龍三郎邸(東京都新宿区)アトリエへ移築
1962年 吉屋信子邸 (現・吉屋信子記念館/神奈川県鎌倉市)
1965年 北村邸 (京都市上京区/北村美術館隣接)
1967年 猪俣邸 (現・成城五丁目猪股庭園/東京都世田谷区)
1969年 岸信介邸 (現・東山旧岸邸/静岡県御殿場市)

※細かなご説明は控えております。間取り図をよくご覧になり、吉田氏が画家の家をどのような思いで設計されたか、皆様ご自身なりにお楽しみください。

参考
饒舌抄 吉田五十八 |新建築社
WEB
小林古径記念美術館

wikipedia

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